第一章

一・瑠土花

「……様、瑠土花ルドカ様!」


 身体を揺すられ、ルドカは目を開けた。

 青の絹地に黄の糸で刺繍された月兎げっとの紋が、薄闇の中に浮かんで見える。

 寝所の天蓋だった。埃っぽい路上にいるのではない。

 首を横に向けると、乳母めのと寧珠ねいじゅが心配げな顔でこちらを覗き込んでいた。


「ばあや」


 しわがれ声が喉に引っかかる。

 水鳥の羽で膨らませた掛け布を撥ね除け、上体を起こして咳き込んだ。その背をすかさず寧珠が撫でさすってくれる。「ばあや」などと老婆のような呼び方をされているが、彼女はまだ齢三十九の小綺麗な婦人だ。


「お可哀想に、ひどくうなされておいででしたよ。悪い夢でも見ましたか」


 差し出された瑪瑙の玉杯を受け取り、水を飲み干してひと息ついてから、ルドカは夢の内容を思い出した。

 悪いどころの騒ぎではない。


「少女王は凶事の兆しだと、市場の高札に書かれていたの。私は既に王で、月が〝蒙〟に呑まれようとしているのが見えるのに、神器がなくて焦って……」


 堰を切るように夢の内容を明かした。悪夢は耳から入った小さな〝蒙〟が見せるのだと、兎国では言い伝えられている。故に、目覚めた後は口から吐き出してしまった方がいい。


 〝蒙〟とは、恨みや憎しみといった人の悪感情と自然霊が結びついて生まれる悪鬼のことだ。取り憑かれた者はその悪感情を増幅させ、人に害を為して新たな〝蒙〟を生み、やがて魂を食い散らされてしまう。

 夢の中の〝蒙〟は黒い靄のような姿をしていたが、本来は姿形がなく、人の目には見えないとされる。正体を見極めて打ち払うためには、神器が必要なのだ。


 寧珠は気の毒そうな顔をして、何も言わずにただ頷きながら、ルドカの額の汗を甲斐甲斐しく拭いてくれた。幼子にするような優しい手つきに、つい心が緩んで、ルドカの唇からは余計な不安までもがぽろぽろと零れる。


「やっぱり女王は、民の間でも不吉と考えられているのかしら。王太子の地位から身を引かずにいる私は、意地を張って迷惑をかけているだけだと思う?」


「さあ、それは何とも申し上げられませんが、例の有名な故事がありますから、民にも不安を抱いている者はおりましょう。兎国のみならず、他の神獣加護国でも、女王の話は聞きませんし……」


 困ったような顔をしながらも、寧珠は飾らない返答をしてくれる。


「宮中と同様に、諸手を挙げて喜ぶ者は、少ないのではありませんか。だから先君も案じてご忠告なさったのでしょう。従うおつもりはないのですか?」


「それは……」

 ルドカは目を伏せ、緩く編んで肩から垂らした白銀の髪を弄んだ。


『女の身に王は過酷。故事に倣って身を引け』


 夢の中で思い出した父の言葉は、崩御の直前に、実際に言われたものだ。それでルドカは、王太子としての自分が、何の期待もされていないことを知った。

 寧珠が言う先君の忠告とは、これのことだ。

 

 あれから三年。

 ルドカは王太子の地位から退かないまま、宰相である叔父の後見を受け続け、ようやく即位が可能な成年の十五歳に達した。 

 天体の観測や暦作りを司る朝廷の一機関・天暦局てんれききょくが、吉凶や天候、日月食の有無を占い、即位式の日取りを十二月の満月の夜と決定したのは、今年の初めのこと。


 宮中は動揺した。


 これまで女の王太子が立つことはあっても、即位式の日取りを決定するまでには全員が自ら身を引き、廃太子となっていたからだ。


 女王は誕生した試しがない。否、誕生すべきではないとされていた。

 理由は、華瞭原かりょうげんの地に伝わる、古代帝国の故事にある。

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