兎国稗伝

鐘古こよみ

序 〝少女王立つ〟

〝立少女王 是兆凶事也〟

(少女王立つ これ凶事の兆しなり)


 その高札こうさつは市場の最も目立つ場所に掲げられていた。

 額縁付きの巨大な木板に骨字こつじで黒々と墨書きされており、高札と言うより、寺や屋敷の名を記して軒下に飾る扁額へんがくのようだ。


 大通りの四つ辻は、通常なら人が行き交い、物売りの声が飛び交い、荷車を引く牛馬の鼻息や糞尿の匂いで満ちているはずの空間である。

 今そこには、乾いた風と埃と、少女しか存在していない。


 少女は豊かな白銀の巻き毛を腰まで伸ばし、襟と袖に金糸の刺繍を施された衣に身を包んで、頭上高くに掲げられたその文言を唖然と見上げていた。

 大きく開かれた赤紫の眼が、風を受けるあざみのように揺れている。


 高札場に掲げられる木板には普通、民衆に知らしめたい法令上の決まり事や、大罪人の罪状とその処分などが書き記されるものだ。

 その予言めいた短文はどちらでもなく、ただ不吉さだけを周囲に撒き散らしていた。


 ふと、視界が暗くなった。

 空を見上げると、いつの間にか夜だった。

 今宵は満月。

 そのはずが、雲もないのに、まどかな銀盤が東の端から欠け始めている。

 胸の内がざわめいて、少女は思わず叫んだ。


 ――月兎げっと


 神界にて月を宮居みやいとする、白銀の神獣の呼称だ。

 生き物のように蠢く黒い靄が、その宮居をぐんぐん呑み込んでゆく。


 ――あれが〝もう〟か。


 ごくりと喉を鳴らし、少女は天を睨んだ。

 その昔、華瞭原かりょうげんの地を惨禍に陥らせたと語り継がれる、姿形のない悪鬼だ。

 人が〝蒙〟を打ち払うためには、神器の力が必要となる。


 少女は腰帯を探った。

 貴人ならば佩玉はいぎょくと呼ばれる飾りを提げるはずのそこに、兎王とおうだけは〝銀湖天鏡ぎんこてんきょう〟を提げている。兎国とこくの高祖・耳長王が、神獣・月兎の試練を乗り越えて授かった神器だ。その力のお陰で、彼は蒙地となった華瞭原の北方を平定することができた。


 しかし指先は、滑りの良い布地を引っ掻くばかり。

 脂汗が滲んだ。


『女の身に王は過酷。故事に倣って身を引け』

 寝台からしわぶき交じりに呟く父の声が、脳裏に蘇る。


 ――やはり、女の私では駄目なのか。


 為す術もなく立ち尽くす少女の目前で、月が消えようとしている。

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