二十八・渓雪
●
ここがどこかはわからない。だが、何かいる。
泣くような、呻くような声が、闇の奥から聞こえてくるのだ。
……あぁ……あ……
その軋むような音に、全身が凍り付く。
セツ――と、幼馴染の呼ぶ声が、聞こえた気がした。
だから掟を破り、
本来通るべき清められた道ではなく、
他の者が同じことをしようとしたら、自分は止めただろう。
勝手に魄を抜け出し廃人になった者の姿を、教育係の大人たちは年少者に見せつける。掟を破ればこうなる。
幼馴染がいなくなった。
稀にあることだと、誰も気に留めない。お前は本家の養子に選ばれたのだ、末端の者のことなど忘れろと、義理の兄どもが口々に言った。そもそも住む場所が違う。身分が違う。今まで同じでもこれからはそうなるのだ。
――セツ。
微かな響きが不意に魂を揺らした。
儚く消えそうなそれを捕まえようと、迷わず魄を脱ぎ捨てた。
たちまち蒙霊どもが群がり、無垢な若い魂を食い千切ろうと手を伸ばす。おぞましさに吼え、誰彼かまわず踏み潰し、自身も野獣になり果てるしかなかった。
人格が変わる。廃人になる一歩手前の状態はそうだと、誰かが言っていた。
蒙に侵された犬のように歯を剥き出し、唸り、噛みつき、周囲のものを何一つ信じられない状態で、やがて諦めたように己を手放すのだ。
俺もそうなるのか。
幸い、そうなる前に、清められた場所へと転がり込んだ。
だが、ここにいるのは、誰だ。
ズ……と、何かが這い、近付いてきた。
簡素な衣を纏った小柄な人影だ。最前から室の奥に転がっていた。
それが、
土床を引っ掻く指先は、まだ細く幼い。
衣の裾はどす黒く汚れ、床には何かの染みが点々と散っていた。
もつれた黒髪の合間から、見開かれた目が覗く。
セツ……
汚れた頬に涙の筋が重なる。
――――ランッ!!
〇
耳に軽い痛みを覚えて目を開けると、真っ黒な鳥がいた。
嘴の先だけがやや赤いが、小振りな
夢の中で叫んだ感触が喉に残っていた。咳払いをし、ため息を一つ。
「……
名を呼ぶと鳥は、やっと起きたかと言いたげに小首を傾げた。雛の頃から変わらない仕草だ。そのままチョンチョンと横跳びに移動し、耳に齧りついてくる。
「おい、勝手に
セツは身を起こした。といっても、硬く冷たい石床から硬く冷たい石壁へと、体を預ける場所を変えただけだ。
手には
暗く湿った牢獄は、夢の中とほぼ変わらない闇に包まれていた。
天井近くに格子の嵌った四角い窓があり、そこから差し込む月明かりが、虜囚の青年と鳥の姿をちょうど照らし出している。
セツの方からも、少し欠けた月の姿がよく見えた。
黒呂が来たということは、今は見張りの目がないのだろう。
「来い」
肘を差し出すと、そこに黒い鈎爪が乗った。
乾燥した沙漠地帯に生息し、他の生物の血を飲むことで生き永らえてきた
セツのように異能を持つ者は、さらに特殊な使い方をすることも多い。
「がっつくなよ」
木製の枷で一緒くたにされて不自由な両手を持ち上げ、自らの犬歯で指の付け根の辺りを噛む。ぷくりと膨れた赤い血の粒を、黒呂は慣れた様子で舐め取った。
しばらく好きにさせてから、指の動きでおしまいだと知らせる。
すると黒呂は、セツの肩に移動し、柔らかな羽毛に包まれた頭を主の頬に押し付けた。セツも頭を下げ、互いの額がちょうどぶつかるようにする。
主従揃って目を閉じた。
相手に取り込まれた自分の血を追うようにして、セツは魂の一部を黒呂のそれに馴染ませる。長い時間をかけて信頼関係を築かなければできない業だ。
黒呂の見てきた光景が、瞼の裏にぼんやりと映し出された。
王都。旅芸人。お忍びの貴人。
張り巡らされた幔幕。それが外されて乱れる客席。
藍明が戯台から飛び降り、地面に跪く。ほぼ同時に立ち上がる男。
飛び出す小柄な影。
銀色の軌跡が放物線を描き、白銀の髪を持つ少女が大衆の目に曝された。
民草が雪崩を打つように膝を折る。赤紫の眼差しがそれを見る。
女王太子は思ったより動じていなかった。少なくとも表面上は。
霊廟で懸命に威厳を保とうとしている姿が、ふと重なる。
予想よりまともな矜持の持ち主で、頭の中身もあるとわかったのは収穫だった。完全な馬鹿より、そういう人間の方がずっと扱いやすい。
一行が王城へ帰ると、黒呂は王都中を移動し始めた。目的は餌となる虫を探すことだが、セツにとってはその間に見聞きしていることが情報源となる。
人間の会話を理解しているわけではないので、音として持ち帰った言葉の意味を読み取るのは難しい。苦労の末、目立つ単語を幾つか拾い上げた。
〝オータイシ タスケタ〟
〝ビジョ ミウケ〟
〝ルドカサマ〟
王城からほとんど出たことがない女王太子の名など、今までの王都で話題に上ることは珍しかった。微かに口角が上がる。
「ほら、一気に名が広まった」
呟いて目を開け、黒呂の嘴を指の背でぎこちなく撫でてやる。
宮廷に協力者がいない状況で、本気で玉座に就く気があるのなら、王城の外に味方を作るしかない。それにはまず、存在を広く知らしめなければならない。
人の口の端に上りやすい話題は、美談よりも醜聞だ。
とはいえ、醜聞を作るわけにはいかない。ならば、下世話な興味を刺激する美談を作ればよい。それも、身分の低きを厭わず救う王族という印象をつけて。
同性同士の恋愛芝居が人気を博す中、女王太子が美女を身請けすれば、嫌でも連想される。芝居の筋書きにかこつけて風聞が広がる。ついでにその風聞を画題にした美人画でも仕立てて売り捌けば、一石二鳥だ。
それに、あの芝居の筋の役割は、それだけではなかった。
男女で役割を逆転する。
そういう発想の種を、人々の心に密かに植え付ける必要があった。
普通の
さらに言えば、ルドカを王城から引っ張り出す必要もあった。
セツは格子窓の向こうの月を見上げる。
少し欠けたまま、美しく輝いている。
だが、月自身がどうであろうと、太陽の強い光の中にあっては、誰の目も惹き付けることができない。
夜闇に躍り出た月を満ちさせるのが、まずは自分の役目だ。
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