二十七・出自(三)

 夕餉ゆうげの膳はすっかり支度されていた。

 二人の兵を主殿の外で護りに当たらせ、人払いをして、室内にはルドカと紅玲こうれい寧珠ねいじゅ藍明らんめいだけが残る。


 自分で器を取ると言ったものの、やはり長い袖が邪魔になる。結局は寧珠の手を借りて食事を進めながら、ルドカは床に膝をつく藍明の話を聞いた。


「カムジーナーとは、ハサライの言葉です。語では神医しんいを意味します。人智を超えた神力をもって医術にあたる者のことで、居場所は誰も知りませんが、古来、沙漠地帯によく現れることが知られております。ハサライには、その神医にまつわる逸話が多く残っていたため、治療を求める旅人が頻繁に訪れました」


「治療を求める旅人?」

「はい。治る見込みがないとして、どこの医者にも門前払いをされるような重病人や、手足など体の一部を失った者たちです。時には死者を連れた者さえも」


 藍明の目線が、ちらと寧珠に向いた。

 玉杯に茶を注いでいた寧珠の手元が、僅かに揺れる。


「死者って……まさか、生き返らせることができるというの?」

「もちろん、伝説のほとんどは作り話でしょう。ですが、人は時に、どんなに信じがたい伝説にもすがりたくなるものなのです。さい尚食しょうしょくのように」

「ばあやが?」

「十五年前、わたくしは四つでした。真夜中に騒ぎがあって目が覚め、寝所から抜け出し、二階の手すり越しに中庭を見下ろしましたところ、一人の女性が輿こしで運ばれてきたのです。小さな荷を抱えながら、泣き叫んでいました。神医を見つけたのに、この子は生き返らない……と」


 はっとして、匙を持つ手が止まる。十五年前。

 ルドカが生まれた年だ。同年、寧珠の娘は死産している。


「それが、ばあや……寧珠だった?」

「はい。当時、塞家宗主が交易の帰路で当家に滞在しており、女性の名を呼んで駆け寄りましたので、奥方なのだと判明しました。以降、その件は外聞を憚って伏せられましたので、当時のことは、その場に居合わせた者しか知りません」


 視線をやると、寧珠は茶器を置き、俯いていた。

 痛ましさを覚えつつも、藍明の話の中に、聞き捨てならない発言を拾う。


「神医を見つけた?」

「はい。確かに、そう嘆いておいででした」


 自分の話はここまでとばかり、藍明は一礼する。

 手元の椀を空にし、食器を置いてから、ルドカはおもむろに姿勢を正した。


 藍明の体に残るひどい火傷も、その神医が治療したのだという。俄かには信じられない話だが、神医の存在の確かさは、寧珠に聞けばわかると彼女は言った。それは、寧珠自身がその神医に会った経験があるからだったのだ。

 とりもなおさず、そんな寧珠の過去を知っていること自体が、藍明の出自の確かさを物語ることになる。


「藍明の言っていることは、本当?」

 尋ねると、寧珠は神妙な顔つきで「はい」と頷いた。


「生まれた娘が既に死んでいるとわかった時、わたくしは、以前耳にした神医の噂を思い出したのです。ひと目夫に会わせることを口実に、周囲の反対を押し切り、娘の亡骸と共にハサライを目指しました。野営の際、従者らが寝静まった時に、自ら手綱を取って沙漠地帯へと突き進んだのです」


 ルドカは絶句した。自殺行為だ。度が過ぎるほど過保護に自分を育ててきた寧珠に、そんな破天荒な行動を取った過去があるとは。


「それで……神医には、本当に……?」

「はい。なんと説明したものか、言葉にし難いのですけれども……あれは確かに神医でした。産後の体であてもなく彷徨さまよい歩いたわたくしは、気を失い、死にかけていたようです。とろりとした甘いものを飲まされ、目が覚めました。奇妙な面を被った人が傍におり、娘は諦めろ、と言いました。そこからまた記憶が途切れ、気付いた時には、輿に乗せられてハサライへ向かっていたのです。その後のことは、あの者の申した通りです」


 藍明の証言は、どうやら事実だったようだ。

 であれば、前提が違ってくる。


「ばあや。私は藍明を、芸妓として宮に連れ帰ったわ。でも、滅びたとはいえ、他国の身分ある家の出なのだとしたら……」


「……ハサライは長年、我が国と交誼こうぎを結んできました。ルドカ様の近侍たるわたくしとも、縁ある娘であったようです。されば、宮女以下の扱いをするわけには参りません。女官として、なんらかの職位を与えるのが適当と存じます」


 まさか。ルドカは内心で呻いた。

 成り行き上、人質に取ることになった旅芸人の娘が、それなりに信頼のおける家柄の者でないと務めることのできない、女官に。


(セツは全部わかっていたんだわ)

 そうとしか思えなかった。藍明の出自も、寧珠との繋がりも、何もかも。

 狙いはなんだ。


 待遇は明日検討しますゆえ、今夜のところは空いた部屋に……と持ち掛ける寧珠の言葉に茫然と頷きながら、ルドカは床で畏まる藍明を見つめた。


 どうにかして彼女と二人きりで、腹を割って話さなくては。

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