第三章
二十九・悪夢(一)
●
〝立少女王 是兆凶事也〟
(少女王立つ これ凶事の兆しなり)
その
額縁付きの巨大な木板に
ルドカはじっとりと背中を汗で濡らし、ひとけのない乾いた四つ辻に立つ。
ここには何度か、来たことがある。
「
ぼそぼそと声がし、驚いて辺りを見回すと、建物の角から人の影が伸びていた。
「帝の崩御が間近となった時、公主は女の心身を理由に自ら廃太子を宣言し、その地位を帝の弟である叔父に譲り渡した……」
手振りを交え、誰かと賑やかに話しているような影なのに、抑揚のない囁き声で語られるのは、『
「女の御代は天が割れ大地が崩れると伝え聞き、憂い嘆いていた民草は……」
ルドカは駆け寄り、建物の角を勢いよく覗き込んで
誰もいない。
「その評判は遠く大陸の西方にまで及び、多くの良縁を……」
足元を見下ろす。黒い手が地面から伸び、ルドカの足を掴んでいた。
驚いて振り払うと霧散し、かえって纏わりついてくる。
叫んでも自分の声は音にならなかった。
誰もいない市場の地面に、よく見ると人の影だけがびっしり蠢いている。それが全てこちらを向き、じわじわと近付いてくる。
〇
物音で目が覚めた。
まだ真夜中らしく、周囲は真っ暗だ。夜警の兵が一定の歩幅で建物の外を見回る足音が微かに聞こえ、やがてまた静かになった。
ルドカは身を起こし、首元や額の汗を手の甲で拭った。
頭が痛い。
悪夢から逃げ出した代償か。
(最近見る、あの夢……)
最初は、何か書かれている高札を見上げるだけだった。
次第にその
たまらず
でも、効果はなかった。
毎晩同じ場所から始まる悪夢を見るなんて、どこか異常なのではないか――。
天井がドタッと、大きな音を立てた。
びくついて身を
「何!?」
俄かに表が騒然となった。じっとしていられず、枕元から護身用の長剣を手に取って、ルドカは寝台を降りた。素足を室内履きに埋め、
採光窓から滲む月明かりが、緻密な飾り格子の影を床に等間隔に投げていた。
普段は扉の両側にいる夜警の
「何があったの?」
ルドカが姿を見せると、兵たちは手に剣を持ったまま
「お騒がせして申し訳ありません。獣です。恐らく猿かと」
「猿?」
「不敬にも主殿の屋根を渡り、姿をくらましました」
「すぐに捕まえるか、追い払いますゆえ、ご安心を」
ルドカも兵のところまで行って屋根の上を見た。
猿は既にいないが、少し欠けた月が濃紺の空に輝いている。
王城の後背を抱く
(でも、もう眠りたくない)
閉めた扉に背を預け、ため息を一つ。
眠っても悪夢の中に戻るだけだ。いっそ手強い
(……駄目だわ。どう言いくるめたらいいのか、全然わからない)
セツならきっと、難なく目的を果たすのだろうと、ぼんやり思った。
彼について藍明に訊きたいことが、山ほどあるのに。
ひとまず寝台の上で、その方法を考えてみるとしよう。
そう決めて、あくびをしながら、寝室に足を踏み入れた時だ。
口に当てていた自分の手に、別の大きな手が覆い被さった。
背後から回った長い腕にぐいと腰を引かれ、身動きが取れなくなる。
「静かに。藍明です。あなたと話をしにきました。いいですね?」
聞き覚えのある落ち着いた声が、耳元でそう言った。
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