第三章

二十九・悪夢(一)


     ●


〝立少女王 是兆凶事也〟

(少女王立つ これ凶事の兆しなり)


 その高札こうさつは市場の最も目立つ場所に掲げられていた。

 額縁付きの巨大な木板に骨字こつじで黒々と墨書きされており、高札と言うより、寺や屋敷の名を記して軒下に飾る扁額へんがくのようだ。


 ルドカはじっとりと背中を汗で濡らし、ひとけのない乾いた四つ辻に立つ。

 ここには何度か、来たことがある。


じょ帝は側室を持たず、正室に公主こうしゅを産ませたきり、後は子を儲けなかった……」


 ぼそぼそと声がし、驚いて辺りを見回すと、建物の角から人の影が伸びていた。


「帝の崩御が間近となった時、公主は女の心身を理由に自ら廃太子を宣言し、その地位を帝の弟である叔父に譲り渡した……」


 手振りを交え、誰かと賑やかに話しているような影なのに、抑揚のない囁き声で語られるのは、『華国世話かこくせわ』の例の故事だった。


「女の御代は天が割れ大地が崩れると伝え聞き、憂い嘆いていた民草は……」


 ルドカは駆け寄り、建物の角を勢いよく覗き込んで瞠目どうもくする。

 誰もいない。


「その評判は遠く大陸の西方にまで及び、多くの良縁を……」


 足元を見下ろす。黒い手が地面から伸び、ルドカの足を掴んでいた。

 驚いて振り払うと霧散し、かえって纏わりついてくる。


 叫んでも自分の声は音にならなかった。


 誰もいない市場の地面に、よく見ると人の影だけがびっしり蠢いている。それが全てこちらを向き、じわじわと近付いてくる。


     〇


 物音で目が覚めた。

 まだ真夜中らしく、周囲は真っ暗だ。夜警の兵が一定の歩幅で建物の外を見回る足音が微かに聞こえ、やがてまた静かになった。


 ルドカは身を起こし、首元や額の汗を手の甲で拭った。

 頭が痛い。

 悪夢から逃げ出した代償か。


(最近見る、あの夢……)


 最初は、何か書かれている高札を見上げるだけだった。

 次第にその文言もんごんがはっきりとし、不吉な内容が読み取れるようになり、悪夢の度合いが増していった。今夜もたまたま目が覚めなければ、昨夜よりもっと恐ろしい事態に遭遇していただろう。


 たまらず寧珠ねいじゅに内容を話したのは、昨日の朝が初めてだ。悪夢の元凶とされる〝もう〟を、さすがに吐き出したほうがいいと思ったから。

 でも、効果はなかった。

 毎晩同じ場所から始まる悪夢を見るなんて、どこか異常なのではないか――。


 天井がドタッと、大きな音を立てた。

 びくついて身をすくませる間に、何かがドカドカと瓦を踏んで走り去る。


「何!?」


 俄かに表が騒然となった。じっとしていられず、枕元から護身用の長剣を手に取って、ルドカは寝台を降りた。素足を室内履きに埋め、とばりを跳ね除ける。


 採光窓から滲む月明かりが、緻密な飾り格子の影を床に等間隔に投げていた。踏板ふみいたを渡るようにその上を歩き、寝室から堂に出て、正面扉を開ける。


 普段は扉の両側にいる夜警の娘子じょうし兵二人が、少し前方に出て屋根の上を見ていた。他の兵たちも中庭で辺りを見回したり、篝火かがりびを持って暗がりを覗き込んだりしている。


「何があったの?」

 ルドカが姿を見せると、兵たちは手に剣を持ったまま揖礼ゆうれいをした。


「お騒がせして申し訳ありません。獣です。恐らく猿かと」

「猿?」

「不敬にも主殿の屋根を渡り、姿をくらましました」

「すぐに捕まえるか、追い払いますゆえ、ご安心を」


 ルドカも兵のところまで行って屋根の上を見た。

 猿は既にいないが、少し欠けた月が濃紺の空に輝いている。

 王城の後背を抱く銀湖山ぎんこざんには、猿も棲んでいるそうだから、何かのきっかけで下りてきたのだろう。納得して、室に戻ることにした。


(でも、もう眠りたくない)


 閉めた扉に背を預け、ため息を一つ。

 眠っても悪夢の中に戻るだけだ。いっそ手強い紅玲こうれいがいないうちに、番兵をどうにか言いくるめて、藍明らんめいと会ってみようか。


(……駄目だわ。どう言いくるめたらいいのか、全然わからない)


 セツならきっと、難なく目的を果たすのだろうと、ぼんやり思った。

 彼について藍明に訊きたいことが、山ほどあるのに。


 ひとまず寝台の上で、その方法を考えてみるとしよう。

 そう決めて、あくびをしながら、寝室に足を踏み入れた時だ。

 口に当てていた自分の手に、別の大きな手が覆い被さった。

 背後から回った長い腕にぐいと腰を引かれ、身動きが取れなくなる。


「静かに。藍明です。あなたと話をしにきました。いいですね?」


 聞き覚えのある落ち着いた声が、耳元でそう言った。

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