三十・悪夢(二)
真に驚いた時、人は声など出せないらしい。
たっぷり三呼吸ほど置いてから、ルドカはようやく頷いた。
「怖がらせてすみません。あなたに危害を加えないと約束します」
その言葉から少し間を空けて、口を塞いでいた手がようやく外れる。
体を拘束していた腕も離れ、ルドカは床に座り込んだ。
ああ、と言って心配そうに顔を覗きこんできたのは、確かに
「乱暴にして、本当にごめんなさい。呼吸は苦しくないですか?」
「ど……どうやってここに……」
思い出したように汗がどっと吹き出し、心臓が早鐘を打ち始めた。
さっきまで誰もいなかったはずなのに。
「猿が出たと聞きましたか? 〝
「猿……」
ルドカはあえぐように喉を鳴らした。
それが本当なら、由々しき事態だ。たかが猿に気を取られて、王太子宮の主殿に侵入を許すとは。
「もちろん、猿だけではうまくいきません。
ふふ、と笑う藍明の和やかな雰囲気に、つい頷いてしまいたくなる。
軽身術とは、特殊な修行を積んで非常に身軽に動けるようになった者の異能のことだ。達人は空を飛ぶかのように、常人では考えられない距離を空中移動できるという。他にも垂直の壁を駆け上がったり、蜘蛛のように天井に貼り付いたり。
戯台から天女のように飛び降りる藍明の姿が思い浮かんだ。
「勝手に押しかけて不敬なのはわかっています。でも、話す必要があると思って」
床に膝をつき、ルドカと目線を合わせて真剣な面持ちで言う藍明は、簡素な寝間着姿ではあるが、月明かりの中でも美しかった。
ルドカはぎこちなく頷く。侵入は困るが、自分も同じことを思っていた。こうして藍明のほうから積極的に動いてくれたのは、結果的には助かる。
「失礼ついでにお願いが。誰の目もないところでは、私は王族に対する敬意を忘れて話します。その方が手っ取り早いからです。いいですね?」
お願いと柔らかい言葉を使っていながら、有無を言わせない圧があった。どことなくセツと似ている。恋人同士というのは、似てくるのだろうか。
そもそも、ハサライの首長家の末娘であれば、国ではルドカと変わらぬ立場だったはず。取り立てて失礼過ぎる願いというわけでもない。
「わかったわ。気軽に話せたほうが私も嬉しい。でも、その前に……」
足に力が入ることを確認し、ルドカはゆっくり立ち上がった。
不思議そうに見上げる藍明から大きく一歩、距離を取る。
両腕を前に差し出し、目の高さで左手の甲に右手を重ね、そのまま跪いて、額が床につくまで頭を下げた。
霊廟で先祖代々の木牌を前にして行う、最上級の
「なぜ……」
戸惑う藍明の声に、顔を上げないまま答える。
「盟約を結びながら、
頭上で息を呑む気配がした。
復讐心に駆られた藍明に、この瞬間、首を落とされてもおかしくないのだと、ルドカは気付いた。
こういう注意の足らない点が、自分の至らぬところだ。
でも、藍明と二人になれたら、まずこうしようと決めていた。自分の国が滅ぼされ、西域で奴隷に身を落とすなど、想像するだけで恐ろしい。
今の自分よりずっと幼い年齢で、藍明は、それを経験したのだ。
(兎国に恨みを抱いていてもおかしくない)
直接の敵ではないが、援軍があれば助かったかもしれないのだから。
――もしかしたら、セツも。
二人に共通する
「……ルドカ様」
重ねた両手の下に、そっと藍明の両手が添えられた。
長年三弦の演奏をしてきたからだろう。左手の指の腹が特に硬く、分厚い。
苦労してきたのだ。
鼻の奥にツンと刺激を覚え、目が潤むのを感じながら、そっと顔を上げる。
月明かりの中で、藍明はなぜか、困ったような顔をしていた。
「どうしましょう。私……」
吸い込まれそうな大きな瞳でじっとルドカの顔を覗き込んで、彼女は、やけに深刻そうな声で呟いた。
「あなたのこと、好きになってしまったかも」
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