十五・霊廟(八)

 悪くないかもしれないと、ルドカは思った。

 自分が青年の正体に疑問をていしたからこそ、人質の話になった。この流れは彼にとって予想外であるはず。今ここで人質となる人物の居場所や特徴を聞いて、霊廟を出た後すぐに迎えに行けば、小細工する暇はないのではないか。


 もっとも、王都から何日もかかる場所にいるのでなければ、の話だ。何か策をろうするつもりなら、きっと迎えに時間がかかる場所にいると言うだろう。

 その返答を聞くだけでも、一つ指標になるかもしれない。


「人質を取るわ」

 言ってみることにした。

「正気ですか。面倒ですよ。死なない程度に世話をしなければならない」

 青年は呆れたような顔をする。


「私は仮にも王太子よ。それくらい、なんともない」

「それはそれは。では考えましょう。何人か候補がいるが、王都から離れた場所にいる者を指定すると、あなたに妙な勘繰りをされそうですね」


 どきりとした。見透かされている。


「なので、王都にいる者にします。霊廟を出た後にすぐ迎えをやれば、俺が小細工を弄する暇もありませんし」


 何もかもお見通しだ。思わず不安いっぱいの眼差しで見上げてしまい、慌てて視線を逸らした。嘲笑われている気がするが、前言撤回するのも下策に感じる。


「言っておきますが、あなたが一方的に疑っているだけで、俺に後ろ暗いところはありませんから。気を張るだけ無駄ですよ」

「いいから、誰を人質にするのか教えて」

「今、仲間の一部が王都にいます。‶華月かげつ天心てんしん〟という旅芸人の一座です。その中に三弦さんげんの名手として知られる、藍明らんめいという名の女がいる。彼女を預けます」


 旅芸人が仲間というところに、ルドカは驚いた。

「その人は……大切な人なの?」

「恋人です」


 一瞬、この青年にそんな血の通った関係の相手がいるのかと、失礼なことを思ってしまった。本当に恋人なら人質に値するが、どう確かめたらいいのだろう。


「本人に直接聞いたらいい。俺がいつも、どんな風に愛しているか」

 考えを気取ったようにそんなことを言われて、ルドカは思わず赤くなった。


「本人だと確実にわかる特徴は?」

「俺と同じ刺青があります」


 後ろで一つに編んだ髪を肩に除け、青年が屈んでうなじを見せた。

 近寄って覗き込むと、三角形と円を重ね合わせた形の藍色の刺青が、髪の生え際に小さく彫り込まれていた。

 この不思議な空間の壁や、霊廟の壁画に彫られている文字に似ている。


「俺の体は王都ではない場所にあるので、案内はできません。遊花街いろまちを転々としているはずなので、探してください。セツからの指令だと言えば通じる」

「セツ?」

りん渓雪けいせつ。俺の名です。仲間内ではセツと呼ばれている」


 渓谷けいこくの雪と書いて渓雪。

 そう説明を加えられ、ルドカの脳裏に、冷たい雪の白さが浮かんだ。

 険しい山の岩肌に亀裂を入れる深い谷。その底で誰にも触れられず、融けることもなく、ずっと同じ白さと冷たさを保ち続けている万年雪。


「セツ」

 思わず声に出して呟いた時、竹笛の音が聞こえた。


 背後を振り返る。不思議な文字が配された白磁のような壁に、銀色の丸い鏡が嵌め込まれている。音はその奥から聞こえてくる。紅玲こうれいだ。

 もう四半刻(三十分)が過ぎたのだろう。反射的に吹き返そうと胸元を探ったところで、ここで吹いても聞こえない、とセツに止められた。


「今のあなたが身に着けているものは、実体の影に過ぎませんから。それに、もう戻った方がいい。下手すると本当に死んでしまうので」


 そういえば、「普通の人間の魂がはくから四半刻以上離れていたら死ぬ」と、最初に言われたのだった。


「どうやって戻ればいいの?」

「誰かが体に触れてあなたに呼びかければ、魂は勝手に戻ります」


 ルドカは葬儀の時の作法を思い出した。喪主が遺体に手を触れて三度名を呼ぶ。それでも息を吹き返さなければ、本当に死んだと見做されるのだ。


 竹笛の音がまた聞こえた。十秒おきに三度鳴らして返答がなければ、家来が霊廟に入って主の無事を確かめる決まりになっている。


「頃合いを見てまた接触します。稗官の存在は王だけの秘密ですから、侍従や護衛に俺のことは言わないように。そうなると藍明の説明に困るでしょうから、助言しておきましょうか?」


 焦ったような三度目の竹笛が聞こえた。間隔が短い。

 ルドカは慌てて頷いた。言われてみればそうだ。誰にも説明できないまま、旅芸人の女性を王太子宮に留め置いたら、皆が困惑するに違いない。


「まず、三弦の名手の噂を聞いたので、お忍びで会いに行くことにする。

 藍明に接触し、人質になれという俺の指令を伝える。

 表向きは、あなたが藍明に惚れ込んで、愛人として囲ったと思わせておく」


 ぐんっと体を後ろに引かれる感覚がした。

 正しくは、魂がはくに戻ろうとしている感覚なのだろう。反射的に手を前に突き出しながら、ルドカはセツに告げられた衝撃的な言葉を胸の内で繰り返した。


 愛人?


 視界が銀色の光で埋まり、風や水流に似た音が耳の奥で唸った。

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