三・世土玖

『ひどい話だ。公主こうしゅ(王女)を馬鹿にしているではないか』


 指南役の老師が去った後、珍しく乱暴に筆を置いて、一つ年上の兄セドクはそう声を荒らげた。


『ルドカは僕と同じ勉強をしているし、武術の鍛錬は僕以上に行っている。体が弱い僕のような男もいる。女の御代が災いを呼ぶなど、力が物を言う戦乱の時代ならいざ知らず、いかにも遅れた考えではないか』


 王族は十歳まで、男女の別なく教育を受けるしきたりがある。

 当時ルドカは八歳で、兄と机を並べて共に学問に励んでいた。父に似て蒲柳ほりゅうの質だった兄は日頃からよく寝込んでいて、その頃にはルドカの方が勉強の進度を遅らせ、彼に合わせるようになっていた。


 なぜ公主は「女の心身」を理由に王太子の地位を降り、賞賛されたのかを老師に尋ね、「男に比べて女の身は弱く、心は惑いやすく、覇業に耐えうる器を持っていないからだ」と返答を得たルドカは、女の身をけなされた気がして落ち込んでいたのだが、兄の言葉を聞いて顔を上げた。


『兄上は、女も王になって良いとお考えですか?』

『もちろんだ。もしお前にその機会が訪れたら、胸を張って即位するんだよ』


 いっぺんに元気を取り戻し、無邪気に返事をしかけたルドカは、すんでのところで息を呑んだ。

 兄の言葉は、それを言ったのが王太子自身でなければ、処罰されてもおかしくないほど不穏なものだと気付いたのだ。

 妹の蒼白な表情を見て、彼はあえかな笑みを唇に浮かべた。


『何を驚く。お前の王位継承順位は第二位だ。ない話ではないだろう』


 その言葉はずしりと胸に重く響いた。


 兎国の国制は華帝国のものを規範として作られている。

 王位継承順位は血筋、出生順、男子優先の原則で巡る。王の正室の子、側室の子、王の兄弟姉妹という順番だ。


 ルドカの王位継承順位は、この二年前までは、第三位だった。

 四つ下の弟がいたのだ。

 可愛い盛りだったいとけない弟は、世話役が少し目を離した隙に一人で庭に出て、小さな池に沈んでしまった。


 正室の母が弟の出産後に産褥さんじょく熱で世を去って以来、父はすっかり気落ちしていた。側室を迎えるのは王自身が乗り気でない上に、健康状態からしてあまり無理をさせない方が良いと、医師団も見立てたらしい。

 王子が増える見込みのないことは、誰の目にも明らかだった。それはそのまま、ルドカの王位継承順位が下がることはないとの事実を意味した。

 だが、上がることはあるのだ。


『兄上……』

 あまりに儚く見える笑みを浮かべた兄の衣を、ルドカは思わず掴んだ。

 彼は父にそっくりだ。長くはないかもしれないと、子供の自分でさえ思う。


『たとえばの話だから、そんなに深刻になるな』

 朝の柔らかな光のような表情で、王子は妹の白銀の髪をくしゃくしゃにした。


『お前は賢いし、意外に気骨もある。女だからといって、己を卑下する必要はないと覚えておけ。控えめにしているから、誰もそうとは思わないだろうが』


 王太子・世土玖セドクが風邪をこじらせて急逝したのは、その翌年のことだった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る