六・慈守羅(二)


「もっと早起きをすべきでしたか」

「とんでもない。殿下のお耳に入れるまでもない些事を片付けていたまで」

 頬にえくぼを作り、ジスラは自信に満ちた大きな笑みを浮かべる。


 文官の最高位たる宰相を示す衣は裾長で、濃紺の絹地に黒銀の太陽紋が刺繍されていた。首周りが硬い立襟は、北方の騎馬民族から伝わった衣服の形だ。高祖の出自を示すものだという説と、有事の際、武に明るくない文官が首を守るためだという説がある。体術にも秀でた彼の場合、後者の用途は必要ないだろう。


 ルドカは笑みを返さず、密かに拳を握った。


「では、その些事の説明を」

「本当に些末なことです。後で文書に纏めてご報告いたします」

「私には明かせない相談でもしていたのですか」


 思い切って踏み込むと、ジスラは口を噤んで目を細めた。

 聞き分けのない子供を見るような視線に、頬が熱くなる。

 失敗した。これでは子犬が吠えているようなものだ。


 だが、他にどうしろと言うのだろう。ルドカは王太子教育を受けておらず、こういう場でどう振る舞えばいいのかわからない。それとも、そんな教育を受けていなくても、王になるべき人間は自然と相応しい振る舞いができるのだろうか?

 黙っていては、お飾りであることを認めるようなものだ。

 本当はその方がいいのだろうか?


 つい先ほど寝台の上で口にした決意の言葉が、もう揺れていた。

『女の身は弱く、心は惑いやすく……』

 幼い頃耳にした老師の言葉が脳裏に蘇る。


(なぜ叔父上と、こんなやり取りをしなければならないの)

 幾度となくこみ上げてきた思いが、今日もまた喉元に迫った。


 元々ルドカは、亡き兄と同じくらいジスラのことも慕っていた。

 学問と武芸の半分は彼から教わったし、可愛がられていた自覚もある。ジスラの成人の年にルドカが生まれたため、彼はよく冗談で「陛下は俺の成年の祝いに高貴な子兎をくださった」と口にしていた。


 その関係に明らかな軋みが生じたのは、父の崩御後のこと。

 表向き、ジスラの態度は変わっていない。向けられる笑みも昔のままだ。でも、たとえ内輪の宴席でも、彼は例の冗談を口にしなくなった。

 向けられる表情の奥には、これまでにない冷ややかなものを感じる。

 何より彼は、王太子としてのルドカを尊重していなかった。


 ようやく臨席できるようになった週に一度の廷臣会議は、ルドカの到着を待たずに始まり、ルドカの意見を聞くことなく終わる。決まった事項が後から文書になって送られてくるだけだ。

 最初のうちは慣れないこともあり、そんなものかと受け入れていたけれど、臨席を始めて二ヶ月も経てば、さすがにおかしいと気付く。

 軽んじられているだけだ。


「……言葉が過ぎました。ただ、どんな議論が交わされたか知りたいだけです」

「なるほど。これは私が不明でした。成年の王族ともなれば当然のご興味ですね」


 明るい口調で感心した風なことを言い、「ならば」とジスラは、それまでと打って変わって滔々と細かい説明を始めた。

 慌てて身を乗り出し、懸命に耳を傾けるルドカの顔色が変わるまで、そう長くはかからなかった。言われている内容に、まるでついていけない。

 国境に配置している軍施設の、兵站へいたんの話をしている。それはわかるのだが。


「……また、虎国との国境間で匪賊ひぞくが横行を極めております故、軍備を手厚くしなければなりませんが、一昨年の冷害が尾を引き穀物の価格がまだ安定しません。そこで兎国全体の砦の人員配置を見直し……」


 延々と続く砦ごとの兵員、馬、糧食、武器防具、まぐさ松明たいまつ、油、兵一人ごとに支給される衣服や日用品。その数と価格と種類の多さに、眩暈がしてくる。

 細かく告げられたところで、その数字の是非を論じるような知識はない。

 結論だけ告げられた時と同じく、ただ頷くことしかできなかった。


 ――無駄な時間を食わせおって。


 畏まる廷臣たちの表情が、そう言っている気がした。

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