七・揺心


「いくら顔と頭が良くて強くて高貴でも私、ジスラ様だけはご遠慮しますねー」


 議場からの帰り道。

 肩を落として歩くルドカの後ろで、紅玲こうれいがぼそぼそと小声で不敬なことを言い、寧珠ねいじゅに幾度となく肘で小突かれていた。


「いや、だって、あれはないでしょう? 絶対にただの嫌がらせですよ。あんな細かい兵站へいたんの内容と数字を王太子が把握している必要がどこにあるんですか? 軍部がよほど無能で世話が焼けるって言いたいんですか?」

「紅玲、怒ってくれて嬉しいけど、あなたの立場が悪くなったら私が困るわ」


 ルドカに言われて一度は口を閉じたものの、紅玲はまだ収まらない様子だ。


「そもそも、あの議場にいるおっさ……お歴々の皆様も、おかしいですよね。先君の時は大秀才の姉君がいらしたのに、散々惜しみながらも『継承順は男子優先だから仕方ない』って決まりに従ったのでしょう? それが今回は……」

「紅玲さん、先君はルドカ様の御父君であらせられるのですよ!」


 たまらず𠮟りつける寧珠の声を聞きながら、ルドカは足を止めた。

 外朝と内朝を繋ぐちょうど中間地点だ。渡り廊下が交差路になり、下には人造の川が流れている。赤い手すり越しに見える水面に、黒い筋を引いて泳ぐ金色の魚の鱗が閃く。揺らめく水面に、樹上から飛び立つ鳥の影が映る。

 それを眺めながら思った。もし自分の立場にあるのが大秀才との呼び声高い伯母のアスマだったら、廷臣たちの態度も違っていたのだろうか。


「伯母上だったら、自分から身を引いたかしら……」

 知らず口に出していた呟きを拾い、寧珠がそっと脇に寄り添った。

「アスマ様をお茶にお招きいたしますか? 〝桃月の節〟も終わりましたから、天暦局のお仕事はしばらく、そう立て込まないでしょう」


 亡き父とジスラの姉であるアスマは、齢三十九。

 幼少期から算術に長け、天文学に興味を持って、成年後は自ら志願して天暦局の一官吏となった。そこで過去に類を見ない数々の画期的な天文観察方法や、星々の運行を予測する計算法を編み出し、世人をして大秀才と言わしめるようになったのだ。


 噂では先々君の御代に暦法の改革を奏上したが、臣民のみならず他国に与える影響までもがあまりに大きすぎるとして、なかったことにされたらしい。

 今は天暦局の長官を務めている。もちろん、女性初だ。


 少し考えたが、ルドカは首を横に振った。

「伯母上はいつでもお忙しいお方よ。いずれ折を見て、こちらから伺いましょう」


 やんわりと断ったのは、今の自分があの立派な伯母に会っても、何も得ることはできないだろうと感じたからだ。


 必要なのは知識。特に、軍事に関わるものが足りていない。紅玲はああ言ってくれたが、事は国防に関わることだ。王太子だからこそ、最前線にいる兵たちを動かすのに必要な物の細部を、一度はきちんと知っておくべきだろう。


 だが、府庫ふこへ向かう気にもなれなかった。


 府庫には政治に関わる多くの書が保管されており、官吏たちの職場でもある。出入りが激しく、忙しい時期には殺気すら感じられる。そんな中でも、王太子であるルドカが現れたら彼らは仕事の手を止め、礼を尽くして迎え入れねばならない。成年に達した後はそれがより厳格に行われるようになった。


 気遣わないように言っても、真正面から受け止めて実際に気安くしてくれるのは紅玲くらいなのだとわかってきたため、最近は女官に頼んで必要な書を届けさせている。それだと求める内容と書が違っていた場合、すぐに取り換えることができずに不便なので、本当は自分が直接内容を確かめて借り出したいのだが。


 結局、朝議の後にルドカの心が向く場所は、いつも同じだった。

(兄上に会いたい……)

 自分の味方だと心から思えるのは、後ろの二人を除けば、亡き兄だけだ。


「霊廟へ行くわ」

 振り返って告げると、二人は予想通りといった顔で頷いた。

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