十九・遊花街(一)

 兎国とこくでは、上級官吏や女官は天蓋付きの馬車の使用が許される。

 通常は一頭立ての二人乗りで、護衛や従者がつく場合は脇を走らせるか、後方の台に立たせるのが普通だ。


 もっと高貴な身分の者は、壁や屋根に完全に覆われた立派な馬車を使うが、中にいるのが誰なのか、御者台の脇にぶら下げた提灯で名を示す必要があるので、お忍びには使えない。


 ルドカは周囲に垂衣たれぎぬを巡らせた貴婦人用の笠を被り、手綱を握る杏磁あんじの隣に座って、王都の喧騒を楽しんでいた。後方に立つ紅玲こうれいは、娘子じょうし軍のものではない簡素な革の胴鎧を身につけ、腰にく長剣も装飾の少ないものを選んでおり、普段より随分と身軽に見える。


「いつもより腰が軽くって、なんだか落ち着きません」

 そうぼやいて何度も剣の柄に触れている。


「そんな紅玲さんも素敵ですわ! じゃなくって、ああ、夢みたいです。まさかお仕事で‶月下恋情げっかれんじょう〟を観に行けるなんて……!」


 慣れた手つきで馬糞を避けつつ車を進ませながら、杏磁が頬を染めて嬉しげにそう言った。

 彼女は下級貴族の娘で、紅玲より三つほど年下だが、振る舞いに落ち着きのある楚々とした女官だ。普段は小振りな目鼻立ちに控えめな微笑を浮かべ、あまり大きな声を出すこともないから、はしゃぐ姿はルドカにとって物珍しい。


「そんなに人気なのね、紅玲……じゃなくって、‶月下恋情〟というお芝居は。聞けば、花街かがいの西と東で筋書きが違うとか」

「はい。西にいる時は公子、東に移った時は公女の物語になります」

「一座の名前は確か……」

「‶華月天心かげつてんしん〟ですわ」


 ルドカは内心で深く頷いた。既に他の女官からも聞いていたことだが、杏磁までそう言うからには間違いない。やはり、セツの仲間だという旅芸人の一座だ。


 たまたま女官たちから王都で人気の芝居の話を聞いたので、観に行くことにした……というのが、藍明らんめいと会うためにルドカが考えた筋書きだった。馬車が王城を囲む内堀の橋を渡り始めた時点で、お供の二人には目的地を伝えた。


 橙冬糕とうとうこうを理由に寧珠ねいじゅを留守番させたのは、同行させれば絶対にひと悶着あるだろうと思ったからだ。彼女は以前、ルドカが旅芸人の興行を観たいと言った時に、あれはいやしい者たちですと懇々と諭して諦めさせた前例がある。 


 定住しない旅芸人たちは、身分制度の上では浮浪人と呼ばれ、奴婢ぬひ以下の賤しい存在とされていた。庶民に人気のある役者や楽器の名手、王侯貴族の寵愛を受ける舞姫なども少なくないのだが、それは珍獣を愛でるのと同じ程度の意味だ。


 特に寧珠のような商家出身の者は、差別の度合いが強い傾向にあった。

 田畑を耕し自らの手で糧を生み出すことがないため、商人の身分は農民より低く、奴婢のすぐ上に置かれている。現実を見れば各地のゆうで権勢を振るい、貴族より裕福な暮らしをし、名門と称されて政治に影響を及ぼす商家は多いのだが、それだけに却って、身分の低さに敏感にならざるを得ないのだろう。


 あえて奴婢を大量に買い入れたり、旅芸人を専属として囲ったり、逆に目に入れるのも嫌がったり、下の身分の者との線引きを強調するきらいがあるのだ。

 無事に藍明を連れ帰れたとして、寧珠を納得させるのは骨が折れることだろう。


(やっぱり人質なんて、やめておけば良かったかも……)


 考えるだけで気が滅入ってしまい、つい弱気になる。

 すると不思議なことに、耳の奥にセツの呆れ声が聞こえた。


 ――正気ですか。面倒ですよ。


 このままルドカが諦めてしまえば、それみたことか、という顔をするだろう。

 途端に反発心がむくむく湧いてきて、やってやる、という気持ちが蘇った。まだ信用できない彼に、自分の弱みを見せてはいけないと背筋が伸びる。


 寧珠が駄目なら、その他の女官を全て味方につければいいのだ。

 具体的にどうするのかは、まだわからないけれど。


「彼らは今、東の花街にいるそうです。つまり今日は公女の筋書きですわ」

「その‶華月天心〟って、お芝居以外にも得意な芸はあるの?」

軽業かるわざや動物を使った見世物も面白いそうです。楽器や歌の名手もいて、貴族や富裕な商人のお屋敷によく呼ばれているとか。特に三弦さんげんの名手が美女と評判ですよ」


 十中八九、その美女がセツの恋人である藍明だろう。


「名手と呼ばれるほどの三弦なら、ぜひ聞いてみたいわ」

「ご安心ください。劇曲を奏する楽員の一人ですから……あ、見えてきました」


 杏磁の言葉で前方に目をやると、ピンと立った馬の両耳の間に、‶東花街〟と書かれた扁額へんがくを掲げる大きな青い門がそびえていた。

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