十九・遊花街(一)
通常は一頭立ての二人乗りで、護衛や従者がつく場合は脇を走らせるか、後方の台に立たせるのが普通だ。
もっと高貴な身分の者は、壁や屋根に完全に覆われた立派な馬車を使うが、中にいるのが誰なのか、御者台の脇にぶら下げた提灯で名を示す必要があるので、お忍びには使えない。
ルドカは周囲に
「いつもより腰が軽くって、なんだか落ち着きません」
そうぼやいて何度も剣の柄に触れている。
「そんな紅玲さんも素敵ですわ! じゃなくって、ああ、夢みたいです。まさかお仕事で‶
慣れた手つきで馬糞を避けつつ車を進ませながら、杏磁が頬を染めて嬉しげにそう言った。
彼女は下級貴族の娘で、紅玲より三つほど年下だが、振る舞いに落ち着きのある楚々とした女官だ。普段は小振りな目鼻立ちに控えめな微笑を浮かべ、あまり大きな声を出すこともないから、はしゃぐ姿はルドカにとって物珍しい。
「そんなに人気なのね、紅玲……じゃなくって、‶月下恋情〟というお芝居は。聞けば、
「はい。西にいる時は公子、東に移った時は公女の物語になります」
「一座の名前は確か……」
「‶
ルドカは内心で深く頷いた。既に他の女官からも聞いていたことだが、杏磁までそう言うからには間違いない。やはり、セツの仲間だという旅芸人の一座だ。
たまたま女官たちから王都で人気の芝居の話を聞いたので、観に行くことにした……というのが、
定住しない旅芸人たちは、身分制度の上では浮浪人と呼ばれ、
特に寧珠のような商家出身の者は、差別の度合いが強い傾向にあった。
田畑を耕し自らの手で糧を生み出すことがないため、商人の身分は農民より低く、奴婢のすぐ上に置かれている。現実を見れば各地の
あえて奴婢を大量に買い入れたり、旅芸人を専属として囲ったり、逆に目に入れるのも嫌がったり、下の身分の者との線引きを強調するきらいがあるのだ。
無事に藍明を連れ帰れたとして、寧珠を納得させるのは骨が折れることだろう。
(やっぱり人質なんて、やめておけば良かったかも……)
考えるだけで気が滅入ってしまい、つい弱気になる。
すると不思議なことに、耳の奥にセツの呆れ声が聞こえた。
――正気ですか。面倒ですよ。
このままルドカが諦めてしまえば、それみたことか、という顔をするだろう。
途端に反発心がむくむく湧いてきて、やってやる、という気持ちが蘇った。まだ信用できない彼に、自分の弱みを見せてはいけないと背筋が伸びる。
寧珠が駄目なら、その他の女官を全て味方につければいいのだ。
具体的にどうするのかは、まだわからないけれど。
「彼らは今、東の花街にいるそうです。つまり今日は公女の筋書きですわ」
「その‶華月天心〟って、お芝居以外にも得意な芸はあるの?」
「
十中八九、その美女がセツの恋人である藍明だろう。
「名手と呼ばれるほどの三弦なら、ぜひ聞いてみたいわ」
「ご安心ください。劇曲を奏する楽員の一人ですから……あ、見えてきました」
杏磁の言葉で前方に目をやると、ピンと立った馬の両耳の間に、‶東花街〟と書かれた
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