三十五・紅玲(三)

 ただの大人しい公主ではない。

 それに気付くと同時に、前将軍の言葉を思い出した。


 ――己の不足を知らぬ者ほど、若き主君を侮る。


 裏を返せばあれは、侮るなという意味ではなかったか。


 横面を張り飛ばされるのは自分の方だと思い知った。

〝女王は不吉〟という故事を頭から信じていたつもりはないが、それが当然のことわりとして存在する国に生き、そんなものだと考える常識が身に染みついていたらしい。割られて初めて、周囲に透明な玻璃ガラスの壁があったことに気付いた。


 王太子は、王になる存在。

 その当たり前の道を辿れない現実に、目の前の少女は挑もうとしている。


「女王が不吉なら、即位式の日、月兎げっとに王と認められないはず。その前に身を引いてしまっては、いつまでも本当のことがわからないと、私は思うの」


 理屈の上では、ルドカの言う通りだった。

 兎国とこくは神獣・月兎の加護を得ることで成立した国。王太子が王となるには、即位式で月兎に認められる必要がある。夜間に行われる儀式の間、月の光が途切れず地上に届いていれば、その証とされる。月兎に認められさえすれば、性別は関係ない。

 ただ、月兎に認められても、臣下に受け入れられない王となっては、意味がない。


「お志には感服しますが、その道は間違いなく悪路です。ご覚悟の上ですか」


 長きに渡る慣習を覆すというのは、並大抵のことではない。その苦難に想像が及ばず、理想が先走って、若さだけで物を言っている懸念がある。機嫌を損ねるかもしれないと思ったが、確かめずにはいられなかった。


 ルドカは驚いたように目をみはって、黒い水面みなもに視線を落とした。

 見え隠れする金や赤の魚の鱗をしばし眺めてから、静かな声で呟く。


「どんな道でも、私しか行けないのなら、行くわ。でなければ、兄上や弟を差し置いて、なぜ私が生き残ったのかわからない」


 その言葉で紅玲は、ルドカを取り巻く死の多さに思い至った。

 肉親を立て続けに亡くし、若き公主は考えざるを得なかったのだろう。女の身で王太子となった理由は何か。生き残った自分にできることは何か。

 悪路なら既に歩んでいる。


つよいお方だ)


 風で水面にさざ波が立つ。それが肌に伝わり、背筋を這い上る感覚を得た。

 ルドカの想いを、前将軍は知っていたに違いない。

 だからこそ、共に新たな道を長く歩める者に、場所を譲ってくれた。


「武官が王族に忠誠を誓うのは当然です。以前の誓いに加えて、これを捧げます」


 紅玲こうれいは、親指から中指まで三本の指を立てた右手を、左胸に押し付ける仕草をした。武人同士の盟約の証で、特別な絆を持つ主従の間でも交わすことがある。


「隠さず、裏切らず、危機には馳せ参じるという意味です。ご信頼ください」


 赤紫の瞳が真偽を確かめるように、三本の指をじっと見つめた。

 やがて紅玲を真似し、ルドカも三本指を左胸に押し付けて、唇を綻ばせた。

 以来、主従の間に隠し事はない。


(そのはずだったが……)


 王太子宮へと至る道すがら、過去に思いを馳せていた紅玲は、昨日から続く煮え切らない感覚に内心で首を傾げた。


 霊廟へ行った辺りからだ。

 倒れていたルドカが頓狂なことを口走って目覚めてより後、どうも、何か隠し事をされている気がする。


(あの時は追及しなかったが、三弦さんげん奏者の女の名を、なぜか知っていた)


 女官たちから聞いたにしては、一番事情通であるはずの筆頭女官・杏磁あんじも驚いていた。その後も寧珠ねいじゅとあの女の思わぬ関係が明らかになるなど、何者かの筋書きに乗せられているかのようで、偶然にしては話がうますぎる。


 藍明らんめい。あれは曲者だ。


 身体検査をした紅玲にはわかる。か弱いふりをしているが、筋肉のしなやかな付き方からして、体術の手練れに違いない。軽業もする旅芸人一座の者なので、当たり前かもしれないが、何か引っかかる。


 筋肉と骨格。衣服は大きめの誂えで、肩の線を下げ指先を袖に隠し、華奢に見えるよう工夫していた。目線は高身長の紅玲より少し低い程度だが、歩く時は俯き加減で腰を落とし、歩幅を小さくしているせいか、やけに小柄に見える。

 男運の悪さに嘆く三弦奏者が、なぜそのように見せる必要があるのか。


(……本当に女か?)


 もちろん、股間に何もついていないことは確認した。だが、違和感が拭えない。


 王太子宮の黒い屋根瓦が見えてきた。

 三弦の音が風に乗り、微かに聞こえてきた。

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