三十六・疑惑(一)

 時は少し、遡る。


「この宮、微かですが、匂います。近頃、悪夢を見ませんでしたか?」

 真夜中に忍び込んできた藍明らんめいがそう言い当てた時、ルドカは大いに動揺した。


 悪夢。

 まさにそれを見て、飛び起きたばかりなのだ。


「どうしてわかるの……」


 夢の中の光景を思い出してしまい、背筋を冷やしながら尋ねると、藍明は「この匂いに心当たりが」と囁いた。


「甘く、微かに鼻を抜けるような、すっきりとした匂い。感じますか?」

「もちろんよ。尚寝局しょうしんきょく(生活の場を整える部局)の女官が毎日、虫除けやもう除けのこうを焚いているもの」


「それとは違う種類のものが混ぜられています。いつ頃からか持ち込まれ、少しずつ量を増やしていったのでしょう。私のように外部から来た者でなければ、王太子宮の馴染みの香りとして、疑問に感じないのだと思います」

「そんな……」


 思わぬ指摘にルドカはたじろいだ。香を聞くことに教養以上の興味を抱いたことがないので、そもそも嗅ぎ分けには全く自信がない。


「良くない物なの?」

「使い方によっては。竜汗香りゅうかんこうという名で流通していますが、特殊な効果を知る者の間では、夢現香むげんこうと呼ばれています。遥か西方の地に育つ大樹の樹液です。香だけであれば無害ですが、蒙術もうじゅつと組み合わせることで、悪夢を見せる効果が」


「蒙術ですって!」

 思わず声が高くなり、ルドカは慌てて口に手をやった。セツの姿がちらつく。


「だから、悪夢を見ていないかと訊いたのね」

「はい。この香を使って見せられる悪夢は、ただの悪夢ではありません。現実に影響を及ぼすのです。聞いた話では、自ら死ぬ夢を繰り返し見せられた者が、本当に自死してしまったとか」


 ルドカは絶句した。他人事ではない。


「……毎晩、同じ場所が出てくるけれど、内容が少し違う悪夢を見るの」

「それは、術に使っている箱庭が同じものだからでしょう。術者は夢の中の風景を模した箱庭を作り、標的となる人物の髪や日用品を入れ、夜ごとに香を焚きながら、果たしたい目的を語るのだそうです。その際、標的が同じ香の匂いを嗅ぎながら眠りに就いていると、術者の思惑通りの夢を見ます」


 肌が粟立つ感覚に襲われ、ルドカは思わず自分の腕を抱きしめた。

 王太子の髪や日用品を手に入れられる者は、限られている。


「ルドカ様。その悪夢の内容は、王位継承に関係するものですか?」

「ええ。ひと気のない市場に高札が掲げられていて、そこにこう書かれているの」


立少女王 是兆凶事也少女王立つ、これ凶事の兆しなり

 あの墨書は術者が書いたものということか。


「私を王太子の座から降ろしたい者の仕業でしょうね。ジスラ様の指示かしら」

「どうでしょう。勝手に意を組んだ別の者の仕業という可能性もあります。なんにせよ、王太子宮付きの誰かが手を貸しているのは確かです」


 はっきり言われてしまい、ルドカは反射的に首を横に振った。


「そんなはずないわ……」

「身近な者を信じようとするお気持ちは尊いですが、情を挟むべきではありません。誰に可能で誰に不可能か、冷静にお考えください」


 言われるまでもなく、本当はそうすべきだと、ルドカもわかっていた。

 寝台に力なく座り、両の拳を顔に押し付けて、しばし考える。

 二つの問題があった。夢現香の混入と、ルドカの髪や日用品の持ち出し。


「……香の支度は尚寝局の女官がしているの。でも、備品として香を管理しているのは尚宮局しょうぐうきょく(総務、人事などを担う部局)だわ。夢現香を混入できるとしたら、そのどちらかだと思う。人目を盗んで後から香炉に混ぜる方法は、見つかる危険が高すぎる」


 女官、宮女、娘子じょうし兵の全てが結託していれば話は別だが、さすがにその可能性は低いだろう。


「香はどこから仕入れているのですか?」

「それはもちろん、てい家からよ」


 鄭家は寧珠ねいじゅの実家である名門商家だ。さい氏が西域から持ち帰った品など、主に王侯貴族向けの最高級品を取り扱う。御用商人は他にもいるが、寧珠がルドカの近侍であるため、王太子宮へ納める品のほとんどは鄭家に任されていた。


「品を受け取るのは尚宮局の女官ですか?」

「ええ。鄭家の当主は寧珠の弟だから、たまに寧珠も同行しているけれど」

「では恐らく、検品は形式的なものでしょうね」


 感情のこもらない声で言われ、ルドカは少しムッとした。


「何が言いたいの。鄭家の持ち込む品に何かあれば、寧珠は自ら命を絶つわ」

「塞尚食しょうしょくが忠臣であることは、夕刻のやり取りを見ていればよくわかりますが、それとこれとは話が別です。とにかく、調べた方がいい相手が、これではっきりしました。尚宮局、尚寝局、そして検品前の香」


 藍明の冷静沈着な言葉に、頷くしかなかった。髪や日用品については可能性のある者が多いため、まずは夢現香を混入した犯人に的を絞ると方針が決まる。


「とはいえ、私は新参者である上に見張りが付けられていて、思うように動くことができません。もう一人くらい、信頼のおける協力者がほしいところです。この話を明かすとしたら、ルドカ様は誰を選びますか?」


 誰に最も信を置くかという問いだ。

 寧珠と紅玲こうれいの名を反射的に出しそうになって、ルドカはぐっと堪えた。


「紅玲よ」

 検品前の香を調べる必要がある以上、鄭家と繋がる寧珠に話を明かすべきではない。片や紅玲は鄭家と無関係な上、絶対に裏切らないと自信を持って言える。


「結構ですわ。では、護衛官殿に協力していただくとしましょう」

 やや声音を柔らかくして、慰めるように藍明が言った。


 その夜のやり取りはそこで終わった。藍明の寝所は見張りが定期的に確認を入れることになっているらしく、それまでに戻らねばならないのだ。


「でも、どうやって帰るの? また猿を使う?」

「ルドカ様、お芝居のご経験は?」


 二、三のコツを伝授されてから、ルドカはおもむろに外へ出た。

 主殿を守る護衛兵に、猿騒動のお陰で眠れないから、しばし夜の散策を楽しみたい。ついては当番兵たちに篝火かがりびを持たせ、池の周囲に並ばせて水面を照らし、夜ならではの景観を演出せよと、冷や汗だらけになりながら告げる。


 ――いかにも眠れなくて不機嫌な感じで。遠慮がちに言っちゃ駄目ですよ!


 そう念を押された通り、懸命に芝居したお陰で、藍明は兵たちが建物を離れた隙に、闇を渡って密かに寝所へ戻れたようだ。


 無事に任務を果たし終え、ルドカは不自然なほど兵たちを労って主殿へ戻った。


(なんだか段々、悪いことを覚えている気がするわ……!)


 結局その夜は、空が白む頃になるまで寝付けなかった。

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