三十四・紅玲(二)
前将軍の退任を受け、後を継いだのだ。紅玲を推挙するにあたり、前将軍はまず自室で内密の面談をした。
「近々結婚し、子を儲ける予定はないか」
「ございません」
間を置かずきっぱり答える紅玲に、少し呆れ顔となる。
「考えてみるふりくらい、してもいいのだぞ」
「考えました。向いていません。幸い我が家には兄が二人おり、どちらも結婚して子を儲けておりますので、両親や祖父母を喜ばせる人員は足りております」
「人員」
「将軍こそ、退任には早いのではありませんか。年齢と身体の衰えが理由と伺いましたが、手合わせ中に危うさを感じたことはありません。私の成長を脅威に感じて身を引くとおっしゃるなら、納得しますが」
「まったく、よく口の回る」
愉快そうに笑い、前将軍は手ずから二つの杯に茶を注いだ。
「今はまだ誤魔化せるが、数年も経てば衰えが目に見えるようになるだろう」
「はあ」
「数年先といえば、ルドカ様が玉座に就かれて間もない頃だ。足元を固めるのに難儀しておられるはず。そんな時期に、馴染みの護衛官が交代する事態は避けたい。かといって、力量伴わぬままお仕えすることは許されん」
紅玲は目を見開いた。まさか、という言葉が喉に絡んだ。
「ルドカ様がこのまま玉座に就かれると」
「何かおかしいか。王太子の座におられる方の、当然の先行きだ」
「しかし、
「お前の言いたいことはわかる。だが、現実に女性の王太子が存在する以上、王になることもあり得ると考えて動くのが当然ではないのか」
厳しく視線を据えられ、紅玲は己の不明を恥じた。
前将軍はすぐに
「歳や性格も含め熟考の末、あの方をお支えするのは、お前が相応しいと思ったまでのこと。それなら王太子時代から縁を結ぶべきだ。この話、受けるか」
紅玲はしばし黙考した。
娘子軍将軍は女性武官の最高位だ。当然、軍属となる前から意識している。こんなに早くその機会が訪れるとは思っていなかったが、断る選択肢などない。
だが自分は、ルドカが王となる可能性を、我知らず排除していた。
視野が狭い。こんな人間が大役を任されて、本当にいいのか。
「
茶を啜り、前将軍が笑い含みの声で言う。
「適任と判断した私の目に、曇りはあるか」
「……いえ」
紅玲は左の拳を右手で包み、
「謹んでお受けいたします」
この時の紅玲は、ルドカのことをさほど知らず、大人しく控えめで読書好きな、いずれ他家に嫁ぐ公主なのだと思っていた。
ゆえに前将軍の言葉は、あくまで仮想に過ぎないと考えた。およそあり得ない事態も想定して備えることが将軍の務めだという、訓戒を受けたのだと。
それが誤りだとわかったのは、将軍および護衛官の職位を正式に継ぎ、王太子宮に日参するようになって、幾日か過ぎた頃のことだ。
「紅玲は、昔から将軍になりたかったの?」
たまたま
「はい。私は武門の出身ですから、幼き頃より武芸で身を立てるつもりでおりました。娘子軍将軍になることは、女性武人にとって最高の栄誉です」
「そうなのね。あの……もしもの話だけど、将軍になる一歩手前まで行ったところで、慣例だから身を引けって言われたら、あなたならどうする?」
「は……」
今度は即答できず、紅玲は固まった。
「そのようなこと、誰が言うのですか」
「ええと、みんなよ」
奇妙な質問だ。将軍になろうとしたところで、慣例だから身を引け。ちょっと想像しづらいが、そんなふざけたことを言い出す奴らが、もしいたのなら。
「とりあえず、そこに並ばせますね」
「並ばせてどうするの?」
もちろん端から殴り飛ばすのだが、その返答は高貴な女性に聞かせるにはあまりにも無粋だと、すんでのところで気が付いた。
「なぐ、いや、反省させます」
「でも、身を引かないと天が割れ、大地が崩れるって言われたら?」
「はあ?」
繕うのは苦手だ。怪訝な表情は隠せていなかっただろう。思わず無遠慮に見下ろすと、ルドカはひどく真剣な顔でこちらを見上げていた。
「それでも言うことを聞かない?」
ここに至ってようやく悟った。今の話は、ルドカ自身のことだ。
王太子の地位にありながら、自ら身を引くものと、皆に思われている。
「ルドカ様は……」
どうされるのですか、と尋ねかけ、不躾な発言だと気付いて口を噤んだ。
だが、ルドカは察したらしい。唇を引き結び、体ごとこちらに向き直った。赤紫の瞳で真っ直ぐに紅玲の目を見て、意を決したように考えを告げる。
「命をかけて護ってくれる護衛官に、隠し事をしたくないから、正直に話すわ。私は王太子の座から降りないつもり。故事に倣う慣習を破り、女でも即位できるか試したいと思っている。こんな私でも、あなたは忠誠を誓ってくれる?」
その視線を真正面から受け止めて、紅玲は息を呑んだ。
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