四十五・疑惑(十)


「〝灰〟と〝予告状〟」

 藍明らんめいは黒目勝ちの大きなまなこをぱっちりと開いて、たった今聞いたばかりの言葉を繰り返した。今回は話し相手として呼んだので、三弦さんげんは抱えていない。


「そしてわたくしをてい家に挨拶に行かせろと…………祖霊が」

「ええ、確かにそう、聞こえたような……」


 つい弱腰になり、言葉尻を小さくしながら、ルドカは紅玲こうれいの様子を窺う。

 目が合うと紅玲は小首を傾げた。特に不審には思っていなさそうだ。安心して藍明を見ると、顔を俯けて肩を震わせている。


(わ、笑っちゃ駄目よ、藍明!)

 ルドカの心の声が聞こえたかのように、彼女は目尻を拭いながら顔を上げた。


「申し訳ございません。王家には随分頼りになる祖霊がいるのだと、感動して」

 明らかに感動の涙ではなかったが、取ってつけたようにそんなことを言う。


「ええと、まずは灰ですね。盲点でした。内外の香炉に使われ、香と同じように熱を帯びるものですから、調べてみろということでしょう。夢現香むげんこうの元となる竜汗香りゅうかんこうは、白っぽい樹脂の塊なので、削って灰に混ぜたら見分けがつかないと思います。乳鉢で擦り混ぜる必要のある香より、混入するのはずっと簡単です」


 藍明は透かし模様の施された青磁の香炉から、梅の花を象った茶色っぽい香を火箸で取った。

 陶器の小皿に乗せ、火をつけて、灰と炭だけになった香炉から遠ざける。

 そして双方の香りを確かめた。


「最初は竜汗香の香気を纏っていますが、しばらくすると薄れていきます。片や灰の方からは、同じ濃度で匂いが続きます。混入先は灰でしたわね」


 それを聞いて、ルドカは紅玲と顔を見合わせた。

「灰を作っているのは宮女でしたね」

「そうよ。子供の頃、仕事を見せてもらったことがある。かまどや湯殿の灰を集めて洗って、灰汁は洗濯に、干した灰は香炉や火鉢に……」


 宮女は内朝で働く身分の低い使用人だ。親族の罪に連座して奴婢ぬひに落とされた娘や、税を納められない貧農の娘、親を亡くした孤児などから補充される。

 採用にあたっては身元や人品の審査があり、五年程度の教育を経て最終試験に合格した者だけが、各女官の下に配属される。その後は特段の理由がない限り、六十歳で恩給を与えられて解放されるまで、王城の外に出ることはない。


「灰は貴重品じゃありませんし、尚宮しょうぐう局で管理されていませんわね?」

「ええ。確か炊事場と洗濯場の間に、灰を干したり保管したりする場所があったはず。香の準備は女官がするけれど、燃え滓を取り除いたり、新しい灰を足したりするのは、宮女たちの仕事だと思うわ。灰で衣が汚れてしまうから」


 言いながらルドカは重要なことに気付いた。

「香に問題がないなら、鄭家の疑いは晴れたのよね? 良かった!」

 寧珠の潔白が証明されたような気分になって、胸を撫でおろす。


「じゃあ、藍明を鄭家に送り込む必要はないのかしら」

「いいえ、鄭家は交易の奢侈しゃし品を扱う商家です。竜汗香を仕入れている可能性がありますし、誰に売ったかわかれば、黒幕に繋がるかもしれません。やはり調べる必要がありますわ。残るは〝予告状〟ですけど……」


 藍明は人差し指を顎に置き、しばらくしてからにっこりと笑った。


「ありがたい祖霊様のご助言のお陰で、いい案が浮かびました。実際に賊が侵入したと見せかける必要はなく、その予告でいいのです。王太子宮の女を奪うとかなんとか、実現性の低い予告を娘子じょうし軍が真に受けてみせ、ルドカ様が追認する。すると宮廷の男たちは『有事に慣れぬ女どもが大げさに騒ぎ立てておるわ』と小馬鹿にしつつ、高みの見物をするでしょう。最終的に茶番であったと幕引きすれば、尚のこと彼らは満足して深追いしない。本来なら監察局に任せるべき件を調査していたとは気付かれません。いかがです?」


 ルドカは自分なりに検討し、他にいい案が出せそうもないので、頷いた。

 それを受けて紅玲は、藍明に視線を向けた。


「こちらはいつでも動ける」

「では決行は明日の朝です。予告状は、わたくしがご用意いたします」

「鄭家の調査から予告状まで、一体どう動くつもりだ」

「それは詳しく申し上げられませんけれど、たぶん鄭家で急な病を発して、一泊させていただくことになるでしょう。王都にはまだ仲間もおりますし、いろいろ助けてもらうつもりですわ。王城から連絡を取るよりずっと簡単です」


 朗らかな藍明の言いぶりからして、その一泊の間に得意の軽身術で暗躍するであろうことは、想像に難くない。紅玲は何か言いたげな顔をしたが、結局何も言わなかった。ルドカは鄭家の手前、聞かなかったことにした。


「でも、私はともかく、紅玲や娘子軍の兵たちまで馬鹿にされるのは嫌だわ」

 心に引っかかっていたことをつい漏らすと、配下の二人は申し合わせたように不敵な笑みを浮かべる。


「ルドカ様、時には侮らせるのも立派な戦術の一つです」

「本当の女の武器は涙でも色気でもなく、簡単に侮らせることができる点です。本質の見えない者には甘い夢でも与えておいて、こちらは望み通りの果実をもげばよいのですわ」


(この二人、正反対なようでいて、実は似ているんじゃ……)

 揃って同じようなことを言うので、ルドカは内心でそう思った。


 寧珠宛ての手紙を作成すべく、ルドカが女官たちを呼ぶのと入れ違いに、紅玲と藍明は同時に主殿を辞す。

 背後で扉が閉まるや、どちらからともなく視線を交錯させた。

 見張りに戻ろうとする兵二人を逆に遠ざけ、先に紅玲が口を開いた。


「祖霊のふりができる邪術師が仲間にいるようだな」


 温度の低い声と眼差しを受けて、藍明は困ったように頬に手を当てる。


「まったくもう、ルドカ様ったら、泥にも身を隠せない蓮のようですわね。でも、あなたが主君を妄信するだけの間抜けじゃないとわかって、良かったです」


 猿騒動の件と同じく、動じない。


 この大胆不敵な態度は、本当に味方であれば頼もしい限りだ……と、紅玲は不本意ながら、認めざるをえなかった。

 祖父から聞かされた王族の神秘には、実はこのような者たちも関わっていたのかもしれない。

 そんな突拍子もない考えが、ちらと胸に浮かんだ。

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