二十二・藍明(二)

 すぐに王都警備を任務とするじゅん軍が駆けつけ、藍明らんめいを襲おうとした男の身柄を、娘子じょうし軍から引き取っていった。


 手枷口枷を嵌められ、屈強な兵士に囲まれて去る男の背を見送りながら、人々は「蒙者もうじゃだ」「蒙相もうそうが出ていた」と言い合っている。どちらも‶蒙〟に侵されて悪心を発露した人間に使う言葉だ。

 男がいなくなると、物見高い庶民の関心は王太子一行に集中した。


「ルドカ様、御髪おぐしが見えてしまっています……!」

 杏磁あんじが焦った口調でそう言いながら、拾った笠を差し出してくる。

 ルドカはそれを掌で制し、剣を鞘にしまった。


 近くにいる人々が白銀の髪を見て膝を折り、雪崩を打つように頭を垂れたお陰で、遠くからも自分たちの姿がよく見えていることだろう。

 今さらそそくさと身を隠すのも滑稽な話だし、王太子宮に藍明を連れ帰れば、正体は自ずと割れるのだ。いっそ堂々と事を運んだ方がいい。

 考えてみれば、その方が話も早かった。公の場で王太子として振る舞う自分の言動は、おいそれと遮れるものではない。逆にお忍びの状況で藍明を連れ帰ろうとすれば、紅玲こうれいも杏磁も二つ返事とはいかないだろう。


 はらを決め、ルドカは背後を振り返った。

 紅玲や杏磁が何か言う前に腰を落とし、拝礼する藍明に直接声をかける。


「こたびの三弦さんげん、名演だった。曲や奏法を語り合いたく呼び寄せたが、思わぬ凶事が舞い込んだな。ここでは落ち着かぬゆえ、我が宮に招く。不都合はあるか」


 言いながらさりげなく身を乗り出し、「セツの指令だ。しばらく人質になってもらう」と小声で伝える。


おもてを上げて返答せよ。直言ちょくげんを許す」


 その言葉を聞いて藍明は顔を上げ、ゆっくりと瞬きをした。

 黒目勝ちの瞳が隠れ、また現れる。それが了承の合図だと、自然にわかった。


「お言葉に甘え、まず御礼を申し上げたく存じます。取るに足らぬ下賤な命が、畏れ多くもその尊き御手により、死の運命から救われました。わたくしの全ては既に殿下のものです。生きるも死ぬも、全てお言葉に従いとうございます」


 さぞ可憐な鈴の鳴るような喋りをするかと思いきや、牡丹の唇から零れたのは、想像より随分と甘みを差し引いた落ち着きのある声だった。


 固唾を呑んで聞き耳を立てていた大衆がざわつく。ルドカも内心でたじろいだ。そこまで前のめりに思いつめなくとも。


(もしかして……わざと?)


 身の預けっぷりに芝居がかったものを感じ、ちらとそう思う。

 セツの指令と聞き、何の迷いもなく王太子宮へ行くための土壌を、さっそく固め始めたのではないか。


「では、今後は王太子宮に住まい、私のためにがくを奏せと言えば、そうするのか」

 試しに軽口めいたことを言えば、藍明は良く鳴るつづみのように呼応した。


「まあ……もし殿下のお傍に置いていただけるとあらば、願ってもない至福の喜びにございます。恥ずかしながらわたくしは、方々で先ほどのような目に遭うことが多く、近頃では一座の者にも迷惑をかけるようになっておりまして……」


「男に襲われかけたことか?」

「はい。とある方士ほうし様に命運を占っていただいたところ、男の蒙心もうしんことごとく駆り立てる気質だと言われまして。あのように命を狙われたことは、一度や二度ではございません。いっそ殿方の目の届かぬ場所に行けたら、どんなに楽なことか」


 蒙心とはこの場合、嫉妬や行き過ぎた恋慕の情が憎しみに変わり、悪鬼である‶蒙〟に巣食われることとなった心情のことを言っているのだろう。

 藍明の美しさを目にすれば、別に鬼神に通ずる特殊な力を身につけた方士でなくとも、言えそうなことではある。


「近頃では疲れてしまい、殺されるならそれも定めと、諦めの境地におりました。ですが、思いがけず尊いお方に守っていただき、身に余るお言葉まで賜り、世の中の色という色が息を吹き返した心地です。

 殿下にとっては戯れでも、先ほどのお言葉は、裳裾もすそに縋りたいほど狂おしい望みをわたくしに抱かせましたわ」


 そう言って藍明は袖に隠した手を口元に寄せ、頬を染めて愛らしく俯いた。

 王太子と美女が何を言ってどんな状況だと、どうやら民の間に迅速な伝達経路が築き上げられているらしい。さざ波が広がるように大衆が色めき立ち、ルドカは背中がむず痒くなった。紅玲と杏磁が後ろでどんな顔をしているのか、ちょっと確かめる気になれない。


(どういう状況なのよ、これは)

 半ば呆れ、半ば恐れを抱いて、そう自問せずにはいられなかった。


 ――表向きは、あなたが藍明に惚れ込んで、愛人として囲ったと思わせておく。


 そうセツに言われた時には、そんなこと絶対に無理だと思っていた。

 ところが今は、むしろその流れが自然であるかのような会話が成り立っている。

 男を狂わせる命運に絶望していた藍明を救うのに、どうやら自分はお誂え向きの立場にいるらしい。袖にしたら、こちらが悪者になりそうな気配すらある。


(どこまでが筋書き……?)

 そう考えてひやりとした。筋書きなわけがないのだ。


 人質を取ることになったのは、自分がセツの正体に疑義を差し挟んだため。

 その人質が藍明になったのは、セツが策を弄する暇がないよう、王都にいる仲間の中から目ぼしい人物を選んだため。

 人質である藍明を愛人と見せかけるよう言われたのは、稗官はいかん候補であるセツとの繋がりを誰にも明かさないまま、彼女を王太子宮に留め置くための方便だ。


 全てはあの霊廟で決まったこと。

 そう思っているのが、そもそもの間違いなのだろうか。


「座長を呼べ」


 戯台ぎだいの脇で身を伏せるように拝礼しながら、こちらの様子を窺っていた呼び込みの男に声をかけると、彼は飛び上がって背後に目をやった。

 いつの間にか一座の面々がそこに並び、同じように拝礼していた。

 中でも見るからに巨体の、筋骨隆々とした禿頭とくとうの男が、拝礼したまま膝を引きずって前に進み出る。


 ――お前たちはセツと接触したか。私が来ることを聞いていたか。藍明を襲った男は、この状況を後押しするような劇の演目は、どこまでがセツの仕込みだ。


 本当に訊きたいのはそこだったが、言葉にできるはずもない。しかも、それを訊いたところで、全ての疑念が払拭されるわけでも、何かが明らかになるわけでもなかった。考えれば考えるほど、冷や汗ばかりが増えてゆく。


 まるで芝居の舞台に彷徨さまよい込んでしまったようだ。

 与えられた役割がある。ルドカはその通りに動き、台詞を喋らされている。


(怖い)

 寒気がぞくぞくと背中を這い上っていった。


 あの青年は、蒙瞭もうりょう術という得体の知れない靄に包まれた、幽鬼そのものだ。

 ルドカにはもう、この道を外れる術があるのかどうかも、よくわからない。


「藍明を身請けしたい。すぐに連れ帰る」


 きっとこれも自分の考えている言葉ではない。そう思いながら、口を動かすとしたら、それしか選べなかった。


「必要な‶月〟を後で包ませるゆえ、女官に伝えよ」

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