四十八・露見(一)

 ひしおは肉や魚を塩漬けにして作る発酵調味料で、完成まで一年ほど寝かせる必要があるため、一度仕込んだら滅多なことでは蓋を開けない。

 問題の発酵室は、王太子宮に付随する調理場の半地下に設けられていた。娘子じょうし兵が宮女たちに訊いたところ、ほとんど寧珠ねいじゅしか出入りしないという。


「香だけ収められた樽が他の醤樽と一緒に並んでいれば、管理者のあなたにはわかるはず。香炉の灰に混ぜたのもあなたですね?」

 紅玲こうれいの発する硬く冷たい声が、まるで自分に向けられているかのように感じて、ルドカは動揺した。

 普段、紅玲は寧珠に対して心を開き、他の女官に対するよりもずっと素顔で付き合っているように見えた。そんな二人の間にいると安心できたのに。


「ま、待ってください紅玲さん。あの香が、邪術に使われていたと?」

「知らないふりは通用しませんよ。白を切るつもりなら、王太子暗殺未遂の犯人として捕縛し、正直に話すまで尋問にかけます」

 暗殺、尋問と毒気の強い言葉を聞き、ルドカは我に返った。


「ばあや」

 いつものように呼び掛けてしまい、息が詰まる。寧珠は実の母よりずっと近くにいて、慈しみ育ててくれた人だ。尋問になどかけたくない。

「お願い、全部話して……!」


 寧珠はすっかり顔色を失くしていた。ルドカと視線が合った途端、へなへなとその場に座り込んで、強張った唇をぎこちなく動かす。

「違うのです、ルドカ様、わたくしは決して、しいそうなどと……!」

「情に訴えるなら場所を変えますよ。こちらを見て話してください」


 紅玲に隙のない声を挟まれ、寧珠は言葉を呑み込んだ。

 言われた通りに体の向きを変え、呼吸を整えてから、改めて口を開く。


「あの香を灰に混ぜたのは、確かにわたくしですが、邪術ではありません。心身を女らしくさせる効能があると、太王太后たいおうたいごう様に勧められたのです」


 会ってきたばかりの人だ。驚いてルドカは身を乗り出した。

「太王太后様が竜汗りゅうかん香を使うよう、ばあやに指示したということ?」

「は、はい……新年の宴が行われている間のことです」


 年末から新年にかけ、王家に生まれた者は配偶者と子を連れて白貴はっき城に集まり、霊廟の拝殿で儀式を執り行う。盛大な宴を催し、神獣・月兎げっとと祖霊を祀る。

 内朝で働く者たちにとっては、一年で最も忙しい時期だった。特に今年はルドカの成人の儀が重なり、例年に輪をかけて慌ただしかったはずだ。

 そうした多忙の合間に、太王太后に呼び出されたのだという。


「ルドカ様が王太子の座に固執する姿は見るに堪えない、あれでは良縁に恵まれぬばかりか命を狙われると、大変ご心配なさっておいでで……」


『女が王になって誰が喜ぶ? 後宮に送り込んだ娘が王の子を産む目があるからこそ、貴族や名家は王家にかしずき支えるのだ。産み腹が女王自身では、卑しい種が交じってもわからぬ。これは権力に関わる問題ゆえ、命を狙われてもおかしくはない。そち、あの者を大事に思うのであれば、これを香炉の灰に混ぜよ』


 そう言って渡されたのが、麻袋に入れられた竜汗香だった。

 事情を知らない宮女によって数袋が運ばれたが、時期が時期だけに、足りない穀物を後宮から譲り受けたものと見えただろう。保管場所に困り、たまたま空いていた醤樽に入れたところ、思いのほか良い隠し場所となった。


「先々王の御代みよに後宮で流行ったものだそうです。心身を女らしくさせ、母性や色気を醸す効能があり、眠る間に取り入れるのが良いと……」


 そんな効能が本当にあるのか。紅玲の陰に控えている藍明らんめいを見ると、彼女は微かに首を横に振った。何か考え込むような顔をしている。


后妃こうひたちがこぞって手に入れたものの、間もなく先々王が、王城内での使用を永久禁止としたそうです。なんでも、常習すると夢見が悪くなるのだとか。そのために多くは捨てられましたが、中には隠し持つ者がおり……」


 王の代替わりで他の側妃たちが去った後、後宮に残った太王太后は、隠したまま忘れ去られた竜汗香をいくつも見つけた。既に女の最高位に上り詰めた立場としては関心もなく、まとめて倉庫の隅に放り込ませた。

 それを急に思い出し、ルドカに使えば良いと考えたらしい。男のように王太子の座に固執するのは、心身に女らしさが足りないせいだろうと。


「使用禁止の香ですから、尚宮しょうぐう局などに持ち込むのははばかられます。そこで、ルドカ様ご自身を大切に思っているわたくしに、密命を下されたのです」


 王太子の座に固執すれば命を狙われかねない。たとえ王になっても貴族や名家の支持は得られず、子を産めば父親に対する疑惑が付きまとう。

 そんな現実を知らされ、寧珠はすっかり恐ろしくなった。香一つでルドカの翻意が期待できるのであれば、試してみるべきだと丸め込まれてしまった。

 とはいえ尚食だけに、毒見を怠ることはしなかった。万一にも間違いが起こらないよう、ひと月は自分で試してみたいと申し出て、太王太后の了承を得たのだ。


「わたくしには何の変化もありませんでした。元より女らしくあり、夫も子も既にいるからだろうと、太王太后様はおっしゃいました。時折、様子はどうかと呼び出され、お話する機会があったのです」


 ひと月程度の使用で健康を害することはない。そう確信してから、王太子宮の香炉の灰に少しずつ混ぜ、香りを馴染ませていった。


「つまり、邪術に使用されるものだとは知らず、害意はなかったと?」

 紅玲に改めて問われ、寧珠は憔悴しきった様子で頷く。

「当たり前です。僭越なことを申し上げますが、わたくしはルドカ様を、本当の娘のように思っているのです。邪術で弑するなど、とんでもない……!」


 その言葉に、ルドカは胸がいっぱいになった。口にしたことはないけれど、自分だって寧珠のことを、本当の母のように思っていたから。

 しかし他の二人は、実に冷静だった。


「今の話、どうだ」

 紅玲が軽く後方に首を傾けて訊くと、その背後で静かに控えていた藍明が、一歩前に踏み出して存在感を露わにした。


「入手先に関しては、わたくしの調べと相違ありません」

 困惑顔の寧珠に、落ち着き払った口調で告白を付け加える。


「実は、竜汗香の存在に気付いたのはわたくしなのです。邪術に使われるものと知っておりましたので、不審に思って紅玲さんに相談し、調べを進めていただいたのですわ。自分でもてい家へ赴いた機会に、詳しそうな方に窺ってみたところ、今は扱っていないものの、昔は後宮に納入していたとわかりました」


 この説明にはいろいろ伏せられている点があるだろうと、ルドカは察した。誰かに探りを入れるくらいはしたかもしれないが、裏付けのほとんどは密かに帳簿を調べるなど、大っぴらに言えない方法で取ったに違いない。

 なんにせよ、寧珠の説明に嘘はないとの証になる。


「要するに、ばあやは太王太后様に命じられ、私を心配するあまりに、竜汗香を密かに焚いただけ。邪術に関わるつもりはなかったということよね?」

 ルドカは紅玲と藍明を交互に見て縋るように同意を求めたが、二人は頷かない。


「最終的な判断はまだです。別の方向からも話を聞く必要があります」

 そう言って紅玲は正面扉に近付き、外の娘子兵に何かを伝えた。


 間もなく五人の女官が、怯えた様子で主殿に姿を現した。

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