十三・霊廟(六)

「‶蒙術もうじゅつ〟と言います」


 愕然とするルドカの耳に、元の淡々とした声音に戻った青年の言葉が届く。


「他者の不安や疑念を呼び覚まし、行動を操作する。

 耳長みみなが王はこの術に精通していたからこそ、玉座にいながら、平定直後の国を隅々まで治めることができたのです。その手足となっていたのが稗官はいかんです」


「……あなたの言うことを、頭から信じろというの」


 受け止めきれず、ルドカはつい声を荒らげた。

 自分の中にあった耳長王の肖像が変わっていく。尊敬すべき高祖は月兎の試練に打ち勝って神器を授かり、蒙禍もうかに陥った華瞭原かりょうげんの北方を平定し、人心を安らげて平和な営みをもたらしたのだと信じていた。

 でも、悪鬼である‶蒙〟を操っていた。


「それじゃまるで、邪術師じゃない!」

「高潔でも人心を掌握できず、民の行動を統制できない王など、ただの無能だ」

「でも、現実には起きていないことで人の疑念や不安を煽るなんて……!」

「言っておきますが、あなたが思うほど特殊な術ではありませんよ。言葉を話せる者なら誰でも使える。たとえば母親が子供に『転ばないよう気を付けなさい』と忠告するのも、簡単な蒙術の一つです」


 ルドカは動揺する頭の隅で考えた。実際に転ぶ前から転ぶことを想像させれば、子供は不安になり、気を付けて歩くようになる。母親の言葉によって行動を改めたのだ。それは確かに彼の説明に当てはまるが、腑に落ちない。


「それに、耳長王を始めとする歴代の兎王たちは、蒙術と正反対の術も使っていました。天地、左右、昼夜のように、この世の物事は必ず表裏一体のついを持っている。‶蒙〟の対は‶りょう〟です。人の好感情と自然霊が結びついた神気しんきで、活力を生む。これを使った瞭術りょうじゅつは人に自信を与え、前向きな気分にさせます。たとえば」


 風向きが変わるように、青年の声音がまた微かに色を変えた。今度は毒ではない。もっと軽い、羽毛を含むような。


「先ほどはああ言いましたが、俺は、あなたが女王になることには賛成です」


 柔らかい、いかにも誠実そうな抑揚が、その言葉にはあった。


「なぜなら、人間の半数は女ですから。それほど多くの人材を登用せず放置するなど、王族の怠慢とそしられても無理からぬ暴挙です。少し頭の働く者ならばわかるはずなのに……」


「やめて!」


 耳を塞いで叫ぶと彼はすぐに口を噤み、観察するような眼差しになった。


「目的は何? そんな話を私に聞かせて、何がしたいの?」


 ――お前などいかようにもできる。

 そう言われているとしか思えず、内心でルドカは怯えきっていたのだが、返ってきた答えは意外なものだった。


「もちろん、自分を売り込みに来たのです。王太子であるあなたに」

「売り……込み?」


 あっさり告げられた言葉に、訊き返さずにはいられない。

 ええ、と頷き、青年は事情を明かした。


「稗官は代々、りん氏と呼ばれる一族が担ってきました。はくから抜け出した魂の状態で長時間の行動ができる、特殊な血を受け継ぐ一族です。

 惣領は血族から力の強い男児を選んで養子にし、稗官の候補に育てます。その中から、次の稗官に任命された者が、同時に惣領の地位も引き継ぎます。

 俺は惣領になりたいのです」


 急に生々しい話になったので、ルドカは唖然とした。

 どうやらこの青年は、死人というわけではなかったらしい。

 それには安堵したものの、惣領になりたいという言葉には違和感を覚えた。


(この飄々ひょうひょうとした人が、権力を欲しがるものかしら……)


 なんとなくそう思ったのだが、短時間話しただけで、そんな判断がつくはずもない。当人がそう言うからには、そうと納得するしかない。

 納得できないのは、売り込み先に自分を選んだという点だ。


「私よりジスラ様を選んだ方がいいとは、思わなかったわけ……?」

「あの人にはもう、五年も前から兄が付いていますから」

「……えっ?」

「父が病気で引退したので、稗官の地位を引き継ぎました。今は兄が惣領です」

「ちょっと待って。稗官は王にしか仕えないんじゃなかったの?」

「そのはずでしたが、病弱な先君が自ら、稗官の主の立場を譲り渡したので」


 なんですって、と唇を震わせた言葉は、声にならなかった。

 王太子の自分が知らないことを、叔父はとうの昔から知っていた。

 ないがしろにされるわけだ。勝ち目など、最初からあるわけがない。


「自分の能力が上だと示して地位を奪うやり方もありますが、兄も簡単に下せるほど無能な人間ではありませんし、ジスラ殿下と主従として過ごした年月の差は覆し難い。暗殺など血腥ちなまぐさい方法を使うのも避けたいのでね。女王になったあなたに選んでもらうのが、一番穏便でいいと判断したわけです」

「つまりあなたは、私が女王になれると思っているの?」

「いいえ」


 肩透かしを食って思わず目を剥くと、青年は涼しげに微笑んだ。


「俺がいなければ無理です」

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