九・霊廟(二)

 慌てて立ち上がると、すっかり足が痺れていてよろめいた。

 月蛍かもしれない光は、祭壇の向こう側へふらふらと飛んで行く。


「ちょっと、待って!」


 手燭を前に掲げては、月のような淡い光は見えなくなってしまう。体の横側で遠巻きに床を照らすことにして、しびれの強い右足を引きずって進んだ。


(本当にあれが月蛍なのかしら。光る別の虫ではないの……)

 祭壇を越えて奥へ行くことに不安を覚えて、つい消極的なことを考えていた。


 前王の月命日には、王族の誰かが臣下を伴い、霊廟を清める習わしがある。ルドカも何度かその務めを果たしたことがあるから、祭壇の奥がどうなっているかは知っていた。普段は暗闇に沈んでいて何も見えないが、奥の壁は色鮮やかな絵で覆い尽くされているのだ。


 初代兎王とおうが神獣・月兎げっとの試練を乗り越え、王権を拝受するまでを描いた、王権神話の絵物語である。描かれてから既に二百年近くが経つ。

 それだけといえば、それだけなのだが、その壁画にはどこか異様な雰囲気が漂っていて、幼い頃からルドカは、近付くのが少し怖かった。


 絵と絵の合間をよく見ると、彩色なしの細かい文字がびっしり刻まれている。華瞭原かりょうげんで使われている骨字や皮字とは全く違うもので、眺めていると頭が痛くなるのも、怖く感じる理由の一つだった。


 その不気味な壁画の方へと、月蛍のような光は、着実に吸い寄せられていく。

 突如、青白い光が二つに増えた。


「えっ?」


 どきんと心臓を縮み上がらせてから思い出した。あれは鏡だ。

 壁画のちょうど中央部に、神域・銀湖山ぎんこざんの絵が描かれている。その名の通り、銀湖と呼ばれる湖が山の頂上にあるため、水面の輝きを表現するために、掌大の丸い鏡が嵌め込まれているのだ。


 その鏡の左横で、青白い光が動きを止めた。

 ちょうど重なる位置に例の文字が一つ彫られており、暗闇の中でよく見えるようになる。ルドカは自然とそれに目を留めた。

 円と三角形をいくつか組み合わせたような、文字とは思えない奇妙な形だ。

 光がまた移動し、今度は下の方にある文字を照らした。それも目で追う。

 離れ、移動し、別の文字の上に留まる。光はそれを繰り返す。


 他にすべきこともなく動きを見守るうちに、ルドカはやがて、頭がぼんやりしてきた。体がふわふわと浮き上がるような、不思議な心地になる。


 ――手燭を置いて、火から離れた方がいい。


 どこからともなく声が聞こえた。

(誰……?)


 ――それから横に。頭を打ちたくなければ。


 確かに、瞼がとても重くて、このままでは手燭と一緒に倒れてしまいそうだ。

 奇妙だと心の隅で感じながら、ルドカは言われた通りにしていた。

 火が髪や衣に移らないよう、手燭を遠くに置いてから、急激に重くなった体を冷たい石床に横たえる。


 そうしている自分を、いつの間にか外側から見ていた。

 目を瞑る自分の顔を見たのは初めてだ。思ったより母に似ている。

 でも、どうして床で寝ているのかしら……


「こっちです。ついてきてください」


 急に背後から誰かの声が聞こえて、ルドカは今度こそ我に返った。

 状況に理解が追い付かなかった。眠る自分の脇に座り込んで、自分を見下ろしている。そんなことあるわけがないのに。


 座ったまま首だけ振り返ると、知らない青年が立っていた。

 手燭の火が遠くても、不思議とはっきり姿が見える。


 黒髪黒目に明るい肌色の、典型的な民族の風貌だ。裾の両脇に切れ込みの入った立襟の長衣を着て、下には足首で絞った袴を履いている。

 うなじから一本に編んだ髪を髷にせず背中に垂らすのは、山野に混じり暮らす方士や、諸国を巡り歩く漂泊民がよくやる髪型だった。被り物のための髷を結わないことで、仕えるべき王も国もないことを示しているらしい。


 そんな人間がなぜ王家の霊廟にいて、自分に話しかけているのか。

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