五十二・天望(一)
ルドカは紅玲と藍明に少数の護衛を加え、
王太子宮からはやや距離があり、
城壁に設えられた階段を上り、広々とした天文台に出ると、
「ルドカ様、ようこそおいでくださいました」
アスマは落ち着いた物腰で腕を伸ばし、左手の甲に右手を重ねる
山吹色の上衣に紅色の
「突然の申し入れを快くお受けいただき、ありがたく存じます」
視線が合ったものの、腹の底は読めなかった。アスマは化粧気こそないが凛とした気品を風貌に備えており、年相応の貫禄も重ねていて、威厳がある。
こんな人が邪術を行っていたなど、何かの間違いとしか思えなかった。
――訴えを起こせば、追い詰められるのはルドカ様の方です。
「女の身で王太子の座に居座り、地位ある二人の女性に禁止の香と邪術を使わせた非常識な公主。事が公になれば、世間の目にはそう映ります。それに、関わった女官たちの背後にはそれぞれの一族が控えている。彼らは慣習に従わないルドカ様への非難を煽り立て、一斉にジスラ様の側へ走るでしょう」
「だから
「今は戦略的に動くべきです。夢現香の件にかかずらっている間に、ジスラ様に足を掬われたら目も当てられません。裁きは玉座に就いてからでも遅くない。ひとまず内々に事件を収め、女官たちを許して恩を売るほうが得策です」
頬の涙を手の甲で払って、ルドカも呼吸を整えながら考えた。
夢現香の効果でルドカが身を引けばよし。事が露見して全てが明るみに出たところで、仕掛けた側の不利には働かない――大秀才のアスマであれば、そこまで読んで
不承不承ながら一理あると紅玲も認め、方針が決まった。
「でも私、黙って引き下がるのは嫌だわ。どうしてなのか、理由を知りたい」
正直な気持ちを訴えると、藍明は表情を和らげて悪戯っぽく微笑んだ。
「もちろん、黙って引き下がりはしません。全て承知の上で泳がせていると示せば牽制になりますわ。会いに行って理由を訊いてやりましょう」
そこで至急、アスマに手紙を出したのだ。
天体観測をする官吏たちの間を移動しながら、アスマは自らルドカの案内役を務めた。過不足のない簡潔な説明には惹き込まれるものがあり、ルドカはしばしば本来の目的を忘れて聞き入った。
やがて天文台の端に到達すると、篝火を持つ者たちを遠ざけて、アスマは北の空の一点を指差す。
「あれが
「緯度とは……確か、地図布の横糸のことでしたね」
懸命に記憶を掘り返してやっとそう言うと、アスマは頷いた。
「緯度がわかれば、自分がどの横糸の上にいるかがわかります。難しいのが経度、縦糸にあたる部分です。これは北辰を頼りにできません」
「南北の位置はわかっても、東西の位置はわからないということですか?」
「そうです。東西方向に離れた二地点で太陽の南中した刻限を比べる方法を考えていますが、場所が変われば時刻も変わるので、簡単ではありません」
急に難しい話になり、ルドカは相槌が打てなくなった。
固まっていると、アスマは「たとえば」と続ける。
「今の時分、
出がけに空の一部が赤紫に染まっていたことを思い出す。
遠い西域では過去が今なのだと知って、ルドカは驚いた。
「場所によってそんなに違いますか」
「はい。太陽が南中する刻限、つまり正午も同じこと。あちらで正午になる時、こちらの時刻がわかれば、太陽の角度から経度を割り出すことができます」
そこまで噛み砕いて教えられても理屈はよくわからなかったが、天体観測をすることで正確な地図が作れるというのは、面白い。
「方法がわかっているのに試せないというのは、もどかしいですね」
思わず素直な気持ちを口に出すと、アスマがこちらを見る気配がした。
見上げると、少し高い位置から、夜闇に似た紫紺の眼差しが降り注いでいる。
「もどかしいと思ってくださいますか」
「ええ……」
「実は昔、計画がありました。ハサライの天文台に私自ら赴いて、いくつかの案を試みる予定だったのです。しかしハサライが滅亡し、計画は頓挫しました」
ああ、と溜息を漏らし、ルドカは頷いた。
あの一帯は今、北方から侵攻してきた遊牧騎馬民族の版図となっている。当初〝
「残念です」
「残念だと思ってくださいますか」
先ほどと似たような言葉を、アスマは繰り返した。
さすがに何かあると感じ、ルドカは押し黙る。
さて、とアスマが、切り替えるような声を出した。
「このまま天文の話を続けるのも愉快だが、あなたはそのために来たわけではないし、私も暇ではない。そろそろ本題に移ってはいかがかな、王太子
口調から官吏としての柔らかさを廃し、体ごとこちらに向き直る。
ハッとしてルドカも対称に動き、アスマと正面から対峙した。
近くに控える紅玲と藍明が、緊張を高める気配が伝わってくる。
少し風が吹いた。
星の高度を読み上げる官吏たちの声が、篝火の向こうから聞こえる。
アスマは涼しげな眼差しで、ルドカが何か言うのを待っている。
ならば言ってやろう。腹に力を込め、ルドカは目的の言葉を投げつけた。
「なぜ私に夢現香を使ったのです」
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