五十三・天望(二)
「
微かに口角を上げ、アスマは視線をちらと脇に流した。
「まさか看破されるとは、少々侮っていた。よい配下をお持ちだ」
そう言うアスマの傍にはいつの間にか、
「理由はいくつかあるが、最も大きいのはハサライだろうな」
今話題に出たばかりの亡国の名を口にし、アスマは夜空を見上げた。
「天は広く、
ルドカは愕然とした。つまりアスマは、次の王が広大な版図に野心を抱き、ハサライの跡地を含めた西域を奪うことを期待しているのか。
「戦を起こせというのですか……!?」
「命の浪費は私も望まぬ。しかし戦とは、望もうと望まざると起こるものなのだ。兎国は西域との交易が経済の柱の一つであったのに、現状では紛争地を避け、従来の倍の物資と時間を要して南側の経路を辿るしかない。ハサライの滅亡は一つの契機であろうな。どうせ起こる戦なら、私が生きているうちに勝てる戦をしてもらいたい。それだけの話だ」
語られる言葉は理路整然としていて、だからこそ恐ろしかった。確かにルドカは、女王になった先の展望に戦を組み入れたことがない。それをアスマは正確に見抜き、玉座への道を絶とうとしたのだ。
「ジスラ様なら望み通りに動くのですか」
「交易路の奪還と復讐のため、確実にそうするだろう」
「なぜ、そのように言い切れるのです!」
「知っているからだ。あれは幼い頃から好奇心旺盛な
動揺してルドカは、思わず
初耳だった。今のジスラには華人貴族の正室と側室が二人いて、それぞれ一子をもうけている。病弱な兄王に代わり、縁を結ぶ役割をも負った結果だ。
ハサライの姫というからには、藍明の姉なのだろう。
虚空を睨むようにして、藍明はいつになく険しい眼差しをアスマに向けている。
「復讐とは、つまり……」
ルドカは口ごもった。
首長家の者は奴隷に至るまで皆殺しにされたと聞く。たまたま乳母の家にいて難を逃れた、末の姫を除いて。
アスマは嘆息し、さすがに口ぶりを重くした。
「城壁から吊り下げられた遺体は、衣服を剥がれ切り刻まれていたらしい」
〇
昼の花が閉じれば夜の花が咲くのは世の道理。
神獣画や吉祥紋を描かれた丸い提灯が橙の光を放ち、行き交う者の顔を昼より明るく照らし出している。
むせ返るような香と化粧の匂い。呼び込みとも
混沌とした
顔馴染みの女に幾度となく嬌声を浴びせられ、今日は寄れないと手振りで示しながら向かう先は、遊花街の奥の奥、貴人が宴を張る高級酒楼だ。春をひさぐ遊女は置かず、一流の芸妓ばかりを揃えた格式の高い遊び場である。
正直言って周季は、低俗でいいから女を抱きたい。
無視できない相手に呼び出されたのでなければ、途中で泥水でも引っ掛けられたふりをして、行きつけの妓楼に飛び込んでいただろう。
しぶしぶ指定された酒楼の門を潜ると、楼主自らが
最上階の宴室がさほど広くないのは、室内よりも露台が売りだからだ。時には即席の庭園を築いて川に魚を泳がせ、本物の花樹を持ち込んで空中の花見と洒落込んだり、大勢の芸妓を舞わせながら月見酒を楽しんだりもできる。
遊花街の喧騒を見下ろすその露台に、今は贅沢にも、四角い卓が一つ出ているきりだった。
欠け始めの白い月と同色の髪を惜しげもなくさらした男が一人、背凭れのある脚付きの座席にゆったりと腰を落ち着け、雷紋をあしらった欄干の狭間から天と下界を眺めている。
寂しい光景のはずが、絵になるから嫌味だった。引き立て役は御免なのでやはり帰ろうかと思うが、相手は武芸にも優れた傑物。たちまち気配を読み取られてしまう。
「よう」
気さくに手を挙げ、えくぼを浮かべて迎えられては、歩み寄らないわけにはいかなかった。仕方なく近寄ると、卓に置かれた白磁の酒壺に、最高級品を示す札がかかっているのが見える。
「
「十年ものだ。よい色にこなれている」
ジスラは手ずから酒壺を取り、琥珀色の液体をなみなみと盃に注いで周季に差し出した。恐れ入るでもなく受け取って、周季はそれをひと息に呷る。
「こらこら、もっと味わって飲め」
「手本を見せてください」
とぼけて返杯すると、ジスラも苦笑して高級酒を一気に呷った。
「うまいですね。しかし王族ともなると、気軽に安酒は頼めないと見える」
「まあな。近いうち、十五年ものの
「十五年……」
塩茹での豆をまとめて口に放り込み、周季は咀嚼に忙しいふりをした。
華燭酒とは、婚礼の時に開ける醸造酒のことだ。女児が生まれた時、甕に酒を封じて地中に埋め、婚礼時に掘り出して招待客に振る舞う。
少し思考を巡らせてはみたが、意味はやはり一つしか見いだせない。
「
「察しがいいな」
「誰に差し出す気です」
「さて、誰がいいと思う。手を挙げている者は三人いるのだが」
三。その数字は、常日頃から軍事に神経を張り巡らせている者にとっては、ある地域の情勢を示すものだ。
「
「同時ではないが、出揃ったというところだ。なんでも、先王同士の和親の取り決めの一つが、今になって急に蒸し返されたらしくてな」
青菜の漬物と
「兎国公主が成年に達したら火狐の王に嫁がせ、密な関係の
「……それ」
周季は時に黄金にも見える淡い色の目を
「本当に元からあった話ですか?」
盃から離れたジスラの唇が、ゆっくりと弧を描いた。
「周よ。お前の率直さは昔から気に入っているが、もう少し言葉を学べ」
「いいでしょう別に。ここには他に誰もいないんですから」
「そうかな」
含みのあるジスラの物言いに首を傾げた次の瞬間、周季は盃を投げ捨てて素早く立ち上がった。
陶器の割れる音が闇を裂き月に刺さる。腰の剣を探った右手が空を掻き、歯噛みしながら眼差しに険を込めて露台の一点を睨んだ。
余人の気配。
ジスラの言葉を合図とするかのように、それが突然湧き上がったのだ。
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