五十三・天望(二)

夢現香むげんこうか」

 微かに口角を上げ、アスマは視線をちらと脇に流した。

「まさか看破されるとは、少々侮っていた。よい配下をお持ちだ」

 そう言うアスマの傍にはいつの間にか、吏人りじんの衣服を着た肌の浅黒い女性が控えていた。吏人とは、試験を経ずに民間登用される小役人のことだ。


「理由はいくつかあるが、最も大きいのはハサライだろうな」

 今話題に出たばかりの亡国の名を口にし、アスマは夜空を見上げた。


「天は広く、兎国とこくは狭い。広大な版図を手にすれば、これまで知る由もなかった事実が見えてくる。たとえば月食がどの土地からも見え方が同じなら、それも経度の測定に役立てることができるだろう。正確な地図は軍事の助けになるゆえ、野心的な為政者ほど天文術の発展を惜しみなく後押しする。男であれ女であれ、そういう王を私は望む」


 ルドカは愕然とした。つまりアスマは、次の王が広大な版図に野心を抱き、ハサライの跡地を含めた西域を奪うことを期待しているのか。


「戦を起こせというのですか……!?」

「命の浪費は私も望まぬ。しかし戦とは、望もうと望まざると起こるものなのだ。兎国は西域との交易が経済の柱の一つであったのに、現状では紛争地を避け、従来の倍の物資と時間を要して南側の経路を辿るしかない。ハサライの滅亡は一つの契機であろうな。どうせ起こる戦なら、私が生きているうちに勝てる戦をしてもらいたい。それだけの話だ」


 語られる言葉は理路整然としていて、だからこそ恐ろしかった。確かにルドカは、女王になった先の展望に戦を組み入れたことがない。それをアスマは正確に見抜き、玉座への道を絶とうとしたのだ。


「ジスラ様なら望み通りに動くのですか」

「交易路の奪還と復讐のため、確実にそうするだろう」

「なぜ、そのように言い切れるのです!」

「知っているからだ。あれは幼い頃から好奇心旺盛な性質たちでな。青年時代は一国の王子という立場にも関わらず、たびたび奔放に西域を旅して回っていた。その過程で交易路確保の重要性を理解したと語るのを聞いたことがある。同時に、正妻にと強く望むほど愛する女に出会ったのだ。ハサライ首長家の姫の一人だ」


 動揺してルドカは、思わず藍明らんめいに視線をやった。

 初耳だった。今のジスラには華人貴族の正室と側室が二人いて、それぞれ一子をもうけている。病弱な兄王に代わり、縁を結ぶ役割をも負った結果だ。


 ハサライの姫というからには、藍明の姉なのだろう。

 虚空を睨むようにして、藍明はいつになく険しい眼差しをアスマに向けている。


「復讐とは、つまり……」

 ルドカは口ごもった。

 首長家の者は奴隷に至るまで皆殺しにされたと聞く。たまたま乳母の家にいて難を逃れた、末の姫を除いて。

 アスマは嘆息し、さすがに口ぶりを重くした。


「城壁から吊り下げられた遺体は、衣服を剥がれ切り刻まれていたらしい」



     〇



 昼の花が閉じれば夜の花が咲くのは世の道理。

 遊花街いろまちは月が輝くほど艶を増し、淫らに咲き誇る人造の花だった。


 神獣画や吉祥紋を描かれた丸い提灯が橙の光を放ち、行き交う者の顔を昼より明るく照らし出している。

 むせ返るような香と化粧の匂い。呼び込みとも掏摸すりともつかぬ手が衣服の裾を代わるがわる引き、肩を組んだ男女が酒臭い吐息を辺りに撒き散らす。


 混沌とした泡沫うたかたの街を、北衛ほくえい将軍・周季しゅうきは慣れた足取りで闊歩かっぽしていた。

 顔馴染みの女に幾度となく嬌声を浴びせられ、今日は寄れないと手振りで示しながら向かう先は、遊花街の奥の奥、貴人が宴を張る高級酒楼だ。春をひさぐ遊女は置かず、一流の芸妓ばかりを揃えた格式の高い遊び場である。


 正直言って周季は、低俗でいいから女を抱きたい。

 無視できない相手に呼び出されたのでなければ、途中で泥水でも引っ掛けられたふりをして、行きつけの妓楼に飛び込んでいただろう。

 しぶしぶ指定された酒楼の門を潜ると、楼主自らが揉手もみでで迎えた。剣を預け、軽くなった腰を無意識に探りながら案内に従う。


 最上階の宴室がさほど広くないのは、室内よりも露台が売りだからだ。時には即席の庭園を築いて川に魚を泳がせ、本物の花樹を持ち込んで空中の花見と洒落込んだり、大勢の芸妓を舞わせながら月見酒を楽しんだりもできる。


 遊花街の喧騒を見下ろすその露台に、今は贅沢にも、四角い卓が一つ出ているきりだった。

 欠け始めの白い月と同色の髪を惜しげもなくさらした男が一人、背凭れのある脚付きの座席にゆったりと腰を落ち着け、雷紋をあしらった欄干の狭間から天と下界を眺めている。


 寂しい光景のはずが、絵になるから嫌味だった。引き立て役は御免なのでやはり帰ろうかと思うが、相手は武芸にも優れた傑物。たちまち気配を読み取られてしまう。

「よう」

 気さくに手を挙げ、えくぼを浮かべて迎えられては、歩み寄らないわけにはいかなかった。仕方なく近寄ると、卓に置かれた白磁の酒壺に、最高級品を示す札がかかっているのが見える。


老酒ろうしゅですか」

「十年ものだ。よい色にこなれている」

 ジスラは手ずから酒壺を取り、琥珀色の液体をなみなみと盃に注いで周季に差し出した。恐れ入るでもなく受け取って、周季はそれをひと息に呷る。


「こらこら、もっと味わって飲め」

「手本を見せてください」

 とぼけて返杯すると、ジスラも苦笑して高級酒を一気に呷った。


「うまいですね。しかし王族ともなると、気軽に安酒は頼めないと見える」

「まあな。近いうち、十五年ものの華燭酒かしょくしゅも振る舞ってやるから期待しろ」

「十五年……」

 塩茹での豆をまとめて口に放り込み、周季は咀嚼に忙しいふりをした。


 華燭酒とは、婚礼の時に開ける醸造酒のことだ。女児が生まれた時、甕に酒を封じて地中に埋め、婚礼時に掘り出して招待客に振る舞う。

 少し思考を巡らせてはみたが、意味はやはり一つしか見いだせない。


花公主かこうしゅは今年、成年の十五歳でしたね」

「察しがいいな」

「誰に差し出す気です」

「さて、誰がいいと思う。手を挙げている者は三人いるのだが」


 三。その数字は、常日頃から軍事に神経を張り巡らせている者にとっては、ある地域の情勢を示すものだ。


火狐かこ王の後継の座を巡って争う王子三人が、同時に縁組を申し入れたと?」

「同時ではないが、出揃ったというところだ。なんでも、先王同士の和親の取り決めの一つが、今になって急に蒸し返されたらしくてな」

 青菜の漬物と肉醤ししびしおを交互に口に運んでうまそうに酒を啜りながら、ジスラは庶民のように気取らない作法で話も進める。


「兎国公主が成年に達したら火狐の王に嫁がせ、密な関係のよすがにする、と」

「……それ」

 周季は時に黄金にも見える淡い色の目をすがめた。

「本当に元からあった話ですか?」

 盃から離れたジスラの唇が、ゆっくりと弧を描いた。


「周よ。お前の率直さは昔から気に入っているが、もう少し言葉を学べ」

「いいでしょう別に。ここには他に誰もいないんですから」

「そうかな」


 含みのあるジスラの物言いに首を傾げた次の瞬間、周季は盃を投げ捨てて素早く立ち上がった。

 陶器の割れる音が闇を裂き月に刺さる。腰の剣を探った右手が空を掻き、歯噛みしながら眼差しに険を込めて露台の一点を睨んだ。


 余人の気配。

 ジスラの言葉を合図とするかのように、それが突然湧き上がったのだ。

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