第31話 新たな地への導き
オラツィオの館には、ティアリーはいなかった。しかし、あんな男のいる所に居なかったことは、幸いだったと思う他ない。あのオラツィオはどうやら男好き――しかも若い少年――のようだが、彼の趣味に貢献していたと思われるマッティアなどは、そうではないだろう。この自分を可愛がってやろうなどと言った男だ。もしティアリーがそんな目にあっていたならば、ティアリーにもフェリオンにも、大きな傷を残すことになっていた。
今、ロクサーナはわざわざ用意された衣装に身を包み、サミュエルの宮殿に来ている。白いチュニックに、鮮やかな青に染められた色布を重ねた、この地域でよく見られる服装だ。色布には驚くほど精細な刺繍が全体に施されており、特に金糸と白糸で縫われた花々が繊細でいて華やかに布を彩っている。これほどのものは、ザルドでもファル・ハルゼにいた時にも見たことがなかった。
これほど上等の物をいただくわけにはと、ロクサーナは辞退しようとした。しかし、これを持ってきたイヴァンに押し切られたのだ。太守からの心よりの贈り物だと言われ、それを着て茶会にと誘われ、着ていただけなければ私が太守に叱られてしまいますと言われてしまえば、断れるものではなかったのだ。
ロクサーナには、太守に会わねばならない理由もあった。ゴルガで保護された子供たちの今後のことに加え、何より、許可を得ていたとはいえゴルガで暴れたことは、太守に詫びておかねばならないことだった。
オラツィオの館での騒動の後始末は、
「どうかしたかね? ロクサーナ」
声をかけられ、ロクサーナは思索から戻って声の主を見上げた。サミュエルが、手ずから紅茶をカップに注いでくれている。相変わらず、彼の真っ直ぐに流れるような明るい髪は見惚れるほどに美しい。
ここは彼の執務室だ。テラスへのガラス戸が開け放たれている解放的な空間である。外から鳥の
「いえ……」
ロクサーナは笑みを返し、温かな紅茶カップを両手で包み込んだ。鼻腔を撫でるのは、
「思った通り、よく似合っている」
満足そうに、サミュエルがその瞳を細めた。
「ありがとうございます」
嬉しそうに褒められれば、悪い気はしない。恐縮しつつも、ロクサーナはサミュエルからの賛辞を受け止めた。
「そなたには何色が似合うのか少し悩んだのだがな。私の見立てはそう間違ってはいなかったようだ。そなたの美しい黒髪にも、その瞳にも、よく似合う」
「太守様の髪の方が、よほど輝いて見えますわ。どのように手入れされているのか、お伺いしたいくらいです」
本心で、ロクサーナはそう告げた。
サミュエルが驚いたように、僅かに目を丸める。次いで、声を立てて楽しげに笑い出した。
「ハハハ! お褒めに与り光栄だよロクサーナ。だが、そなたの存在は格別だ。その髪にしてもまるで暗い宇宙の波のようで――いつまでも眺めていたくなる」
明るめの
その眼差しに捕まるのを怖れ、ロクサーナは話の流れを僅かに変えた。
「これほど素晴らしいものを、
「そなたは、私の
「憂い、ですか」
「そうだ、ずっと喉の奥に刺さっていた小骨のような、な」
今はすっきりと良い気分なのだと、サミュエルが微笑んだ。
その小骨はゴルガの主のことなのだろうかと、ロクサーナは思い至る。彼の奴隷の扱いは、おそらくサミュエルのそれとは違った。であれば、サミュエルが彼を
「ゴルガでのことは、大変申し訳なく……」
「なに、気にすることはない。結果的にあの町はこれから良くなる。そのことには礼を言おう。
「いえ、私など……、まだ若輩です。寛大なお言葉に感謝します」
ロクサーナは、そう答えるに留めた。ブリガンダインのことを聞きたがっているように感じたが、そこは微笑することでゆるりと躱す。
「太守様。ゴルガで保護された子供たちの中には、探している子供はいませんでした。引き続き、この地での捜索をお許しください」
「それは勿論、構わぬが――……マッティアとかいう男が組織だって攫ってきていたファル・ハルゼの子供たちについてはどうしたものか? 行く当てがないのであれば、私が良きところに宛がってもよいのだが」
「それは……まずはその子供たちに希望を聞いてみようと思います」
サミュエルが言う『良きところに宛がう』というのは、この地で奴隷として誰かに雇わせる、という意味なのだろう。言葉から受ける印象を考えなければ、何らかの職を得、食べ物に困らず、生きていける道にはなるかもしれない。だが『良きところ』がその子供とってどうかと考えれば難しいところで、その場所から簡単には逃げられなくなる。もっとも、ファル・ハルゼでもそう簡単に職を変えられはしないが、きっと相談することはできるだろう。それに、まだ幼ければ、公的機関で間違いなく教育を受けることができるはずだ。そして何より、人は資源だ。人材確保は領地経営に必須といえ、ファル・ハルゼも将来有望な人材を常に欲している。
「ふむ」
サミュエルが意外にもすんなりと頷きを見せた。
「それで良かろう。ファル・ハルゼに帰りたい子供がいれば、連れて帰るがよい。元々ファル・ハルゼから来た子供でなくとも、あの男は違う土地から子供を攫うことがあったようだからな。共に行きたいと願う子供がいれば、それも連れていって構わぬぞ」
「子供たちへのご配慮、痛み入ります」
サミュエルの寛大な考えに、ロクサーナは驚きつつも、これ幸いと受け入れた。
「ゴルガは、どうされるのでしょうか?」
「気になるのか?」
「ええ、町人たちは罪人ではないでしょうし、屋敷の者たちにも善良な者はおりましょう」
「そなたの言う通りだ。マッティアの組織は解体したが、屋敷で働いていた者はそのままにしている。ファル・ハルゼの特使殿に対して犯した罪は、ゴルガの主人が負うものだ」
ローテーブルを挟み、向かいに座っているサミュエルが紅茶カップをソーサーから持ち上げた。その所作は優雅で、がっしりとした手指が優しくカップを支えている。
「オラツィオは二度とあのような愚行ができぬ体にして、ゴルガから追放した」
何でもないことのように言ったサミュエルに、ロクサーナは静かに頷いた。どれほどの痛みも、彼の罪には見合わない。
「あれでは、奴隷にすらできぬ」
「……そうですね」
全て人任せにしてきたような、だらしのない体をしていた。軽い肉体労働すらできそうにない。となれば、オラツィオは『奴隷にすらなれぬ』者だ。安全な寝床を失い、日々の食べ物に飢える。それだけではない。彼のことを知った者がいれば、瞬く間に噂は広がる。これまでしてきたことへの報いを受けることになるだろう。それは、あっさりと死なせるよりも
「昔は、それなりに
独り言のように呟かれたサミュエルの言葉は、ロクサーナの耳に妙に残った。少しばかりの情が感じられたからだ。
「妻は関与していなかっため、成人している息子の元へ行かせた。あの町は別の者に任せるつもりだ」
「妻も、子供もいたのですね」
性癖とはまた別なのか。
そこに驚いて口にすると、サミュエルが
「オラツィオの妻は、私の三番目の妻――ヴィルナが選んだ貴族の女だ。私との子には相応の伴侶が必要だと、それは熱心に世話をやいていたようだが……こうなってしまっては哀れなものだな。良くも悪くも、婚姻は人生を左右する」
婚姻に関しては、そうなのだろうと思う。そんなことよりも、ロクサーナには驚いたことがあった。やはり間違いなく、オラツィオはサミュエルの息子なのだ。妻が三人、もしくはそれ以上いるのかもしれないということにも驚いたが、そちらが霞むほど、二人は親子には見えない。オラツィオは、どう見ても五十歳代かそれ以上に見えた。それなのに、その父親と思われるサミュエルの体は若さに満ちている。
おそらく、サミュエルの妻ヴィルナは長命種ではないのだろう。それで、その息子も長命種にはならなかったと思われる。勝手な想像ながら、オラツィオは今生きている太守の子供の中でも年長なのかもしれない。太守の息子という立場であれば、本来ならば父親からの覚えを良くし、次の太守を目指すものではないか。しかし彼のしていたことを考えれば、それを自ら放棄していたとしか思えない。もしかしたら、いつまでたっても若々しい父親がいることが、彼の気持ちを変化させてしまったのかもしれないと思う。歳を取り、次の太守になる可能性など無いことを知り、自棄を起こしたのではあるまいか。それとも、単に自分の城を持ち、傲慢になり過ぎたのか。
ロクサーナは、密やかに息を吐き出した。これ以上考えても仕方がないことだ、とオラツィオのことを思考から追い出すよう努める。真実が
「そなたは、どのような男に嫁ぐのやら」
無意識のうちに下がっていた視線を上げれば、サミュエルの静かな眼差しと目が合った。底の見えぬ瞳だ、と思う。
「分かりませんわ、こればかりは。私の一存では決められません」
カイレン家の繁栄のためになる人物との婚姻。ザルドの公女として生まれたロクサーナにとって、結婚とは政治的な意味を持つ。そのことを、ロクサーナは幼い頃から理解している。
「ふ、そうだな」
口元の笑みを深めたサミュエルが、喉の奥を小さく鳴らすようにして笑った。
「そなたの父君に、今回の礼を伝えておくことにしよう」
「どうか、お気遣いなさらずに……」
「私が、そうしたいのだよ」
そう言われては、ロクサーナは
「ところで、私は占いを
「は、占い、ですか?」
ふいに思ってもみない言葉を投げかけられ、ロクサーナはまた驚いた。
占い。
普段は、あまり自分が頼ることのないものだ。故郷にも占い師はいたが、本物も
「占いとは、盲目的に信じるものではない。だが、時には視野を広げてくれるものなのだよ」
考えが読まれたかと思う言葉が返った。確かに、サミュエルの言うことには一理ある。
ロクサーナが素直に頷くと、サミュエルの笑みが深まった。
「占いによれば、二つの結果が出た。そなたの探しものは、あちらの方角にあるというもの」
サミュエルの右手が、テラスの先を指した。
揺れる色布の向こうに、青い空が見えている。ファル・ハルゼとは違う方向だ。
「あちらには、何が?」
「ストラングル・コーストだ。ソタティ氏族の治める地にある」
「ソタティ氏族の……」
彼は『占い』と言ったが、本当にそうなのだろうか? そうロクサーナは
ストラングル・コーストの名前は、旅に出る前にファル・ハルゼの太守アレクシスからも聞いている。まずどちらの土地へ向かうかと相談した時に、彼がそれぞれの土地について簡単な説明をしてくれたのだ。それから
「もう一つは、探しものは既にファル・ハルゼに戻っている、というものだった。良心的な旅芸人にでも拾われれば、可能性はあるだろう」
そうであれば、どれだけ良いか。心からそう思う。
「太守様」
「サミュエルでよい、ロクサーナ」
そう返され、ロクサーナは一呼吸置いた後、口を開いた。
「サミュエル様。私がここを去った後も、私の大事なティアリーのことを気に掛けていてくださいますか? 私はストラングル・コーストへ向かいたいと思います。
サミュエルの明るめの
「良いとも。賢い選択だ。そなたの大事な者の特徴を教えてもらうとしよう。――イヴァン」
彼が声を僅かに張れば、扉傍に控えていたイヴァンがすぐにやってくる。
「地図を」
「
ストラングル・コーストへ行くための地図を、見せてくれるのだと期待する。
「心より感謝します、サミュエル様」
ロクサーナはサミュエルに対し、深く感謝の意を示した。
◇◇◇
「よろしいのですか? あのようなことまで」
ロクサーナが執務室を去った後、イヴァンはサミュエルに対し問い掛けた。
占いと称して、ロクサーナを導いたことだ。
「お気付きになられるかもしれません」
「構わぬよ。それを軽々しく口にするような愚かな娘ではあるまい。それに、思ったよりゴルガの問題がうまく片付いたのでな」
働きには相応の褒美を与えねば。そう言ったサミュエルが、さも楽しげな笑みを浮かべた。
彼が言うように、ゴルガの問題は綺麗に片付いた。太守の身内ということもあり表立って手を出しにくかった部分だ。ファル・ハルゼの特使相手に罪を働いたことは、処分するための大義名分となった。もしロクサーナが殺されていても、それを理由にサミュエルは彼らを断罪したことだろう。
怖い方だ、とイヴァンは密やかに心の中で呟いた。
◇◇◇
翌々日の朝。
晴れやかな空の下、ロクサーナはエトラ・プラートの町の外で、パウエルたちの見送りを受けていた。これから彼らと別れ、ソタティ氏族のストラングル・コーストを目指すのだ。そうするにあたり、パウエルは昨日一日かけ、準備を整えるのを手伝ってくれた。といっても、ほぼ彼が主導で動いてくれていた。フェリオンにも覚えさせなければ、と様々なことを教えてくれていたようだ。というのも、ロクサーナは
「よいか、フェリオン。馬たちの状態はよく見ておくのだぞ。休憩もきちんとさせること。何度も言うが、この荷は生命線なのだからな」
パウエルが教え込むように言いながら、大人しく荷を括りつけられている立派な馬二頭の鼻筋を撫でた。その傍で、フェリオンは真面目な顔をして頷いている。あれはそこ、あれはあっちに、と二人での確認作業を眺めながら、ロクサーナはサミュエルからもらった地図を広げ、進むべき方角の確認を済ませた。
一旦ファル・ハルゼに戻ってからストラングル・コーストへ向かうことも考えたのだが、パウエルに相談した結果、こうして別行動を取ることを認めてくれたのである。ファル・ハルゼを経由していては大幅な回り道になってしまうことに加え、フェリオンの焦燥を汲んでくれたのだろう。ゴルガでの出来事は、ティアリーへの心配を極限にまで高めたのだ。「無茶なことを言ってると思うけど、心配で堪らないんだ」そう言ったフェリオンの気持ちを無視することなど、ロクサーナにはできなかった。
「私たちは大丈夫ですよ、ロクサーナ様。もう少しここに残る用事がありますし、いつもの護衛たちも腕は確かなのです。何より、旅慣れておりますからな。それより心配なのは
パウエルが、心底心配そうに、そう言った。心配され過ぎな気もするが、有難いことだと思う。
「パウエル、
「とんでもない! お役に立てて光栄です」
ロクサーナはパウエルを始めとする旅の仲間たちに心からの礼を伝え、そして別れを告げた。それから自分の肩から
「クロちゃん、フェリオンをお願いね」
『ミュゥッ!』
「おい、逆じゃないか普通」
フェリオンから冷静な指摘が入り、パウエルが隣で笑いを堪えている。ロクサーナも分かって言っているため、訂正はしない。
「何かあったらすぐにクロちゃんに言って。いいわね?」
あれだけ心配させられたのだ。拒否などはさせない。それに、
「分かった」
「よし」
笑みを向ければ、フェリオンの頷きと笑みが返される。それを確認してから、ロクサーナは傍に寄せられていたブリガンダインの掌の上に移動した。視界の景色があっという間に上がっていく。開けられていたハッチからコックピットに降り立てば、モニターに映った周囲の景色がよく見えた。
「じゃあ、出発よ、ヴァージル。ストラングル・コーストへ!」
『イエス、マスター。長旅になりそうですね』
「そうね。ま、なんとかなるわ、きっとね」
ティアリーのことは心配だが、気持ちは沈み込みすぎない方がいい。
ヴァージルの言う通り、見知らぬ土地への長旅になるのだ。今度は、馬を牽いて下を歩くフェリオンと二人、いや、ブリガンダイン=ヴァージルと
「行くわよ、フェリオン」
スピーカーを通し、フェリオンを促す。サイドモニターに映されたフェリオンの左腕が、応えるように大きく上がった。
〈第三章 了〉
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