第37話 ルック・ブリーガーの受難
少し薄暗い酒場は、まだ時間が早いせいか客が少ない。そこでロクサーナたちは遅い昼食を取っていた。ランチもしている酒場で、ここの料理はなかなかイケるからと、ルックに勧められたからだ。荷物を運ばせている馬二頭は、裏の馬舎に繋がせてもらっている。
食事を待っている間には、ルックが
「なぁ、客席ってどうなってるんだ? 近くで観られるのか?」
「ああ、勿論!
ウィンクを寄越しながら話すルックに、フェリオンは
「まー
「それって、客の安全のため?」
「そう。それでも
「うげ……」
フェリオンが、深く眉根を寄せた。
「客が死んだらシャレになんないだろ?」
「観にくるのは命知らずが多いんだろうな。まぁ安全に観たけりゃ、高い金を払ってVIP席をゲットしなきゃな。あそこは跳弾シールドが備え付けられているから。お偉いさん方優先だがね」
そんな話をしているうちに頼んだ食事が運ばれてきて、ロクサーナたちは今、昼食に有り付いている。
驚くほど食べるのが早かったルックは、マスターと話してくると言って席を離れた。
「宿に荷物を置いたら、少し街中を探してみましょう」
煮込まれた肉をスープから
別の皿に乗せてくれた赤い果実を
旨味が、体の末端にまで染み渡っていく気がする。斜め向かいのフェリオンの顔を見れば、彼も満足そうに頬を緩めている。
「警備隊も探してみるって言ってくれたし、今日休みの人にも明日聞いてくれるって言ってたしな。アイツの顔が利くのは本当なんだな」
「そうみたいね」
警備隊の詰所に行けば、すぐに親しげな声がルックにかかったのだ。少しばかりの世間話――
良い人に出会った。ロクサーナはルックとの出会いに深く感謝した。
テーブル席からカウンターにいるルックを見れば、店に入ってきた若い女に声をかけている。短いパンツスタイルの快活そうな女性だ。どうやらルックとは知り合いらしい。カウンターの隣にどうぞ、と言ったルックが、笑いながら断られている。その女はルックに片手を振りながら、少し離れたテーブル席に座った。
「なんだ、気が多い奴だな」
声を
フェリオンも食事を終えたため、ロクサーナは宿を探しに出ようと席を立った。ルックに改めて礼を言っておかなければ。そう思った時、店に新たな客がやってきた。胸元を大きく
「知り合いかどうかは分からねぇな、アイツの場合。絶対に女にだらしないタイプだぞ」
「ふふ、どうかしらね。あら、行っちゃうわ」
声をかける前に、ルックがこちらを振り返った。その片手が、大きく振られる。
「ごめん! ちょっと野暮用ができちまった! 宿はマスターに聞いてくれ! またその内にお誘いにいくよ!」
「ええ、色々とありがとうございました。決勝戦、頑張ってくださいね!」
そう答えれば、満面の笑みと共にウィンクが返る。
「ありがと、お嬢さん! もし妹さんが見つかったら、皆で劇場公開を観に来てくれよ! すごい試合を見せてやるからさ!」
「劇場公開?」
疑問に思ったが、女に
「賑やかな奴」
「そうね、楽しい人だわ」
懐に入ってくるのが
そんなことを思っていると、フェリオンからじっとりとした視線を向けられた。
「もしかして、アイツみたいなのが好みなのかよ」
「え? んー、話しやすくて、
「いや、その、好きなタイプなのかなってさ……。ほら、あんたってユーインに口説かれてても、なんていうか、普段通りだろ」
「そう?」
自分はユーインに口説かれていたのだろうか? そう振り返ってみて、ロクサーナは首を傾げた。正直、『口説かれる』ということがどういうものかが分からないのだ。ユーインの言うようなこと――容姿などへの賞賛は、兄レオンも周囲の女性たちによく口にしていた。そんな兄のことを指して、母は常々言ったものだ。あのようなことを軽々しく言う男性を相手にしてはいけませんよ、と。しかし『あのようなこと』は、ロクサーナも兄であるレオンからよく言われていたことなのである。兄が妹を口説くも何もないだろう。であるから、ロクサーナには本当に、よく分からないのだ。
「で、好きなタイプなのかよ」
「そんなに気になるの?」
少ない荷物を背負い直したフェリオンに改めて問われ、ロクサーナは
『ミュィィ~』
「ふふふ、ん~好きなタイプね。どうかしらねぇ、ねぇ、クロちゃん」
『ミュウ?』
体が特別大きいとか? 寡黙、というか全く喋らないというか?
それが好みのタイプかと言われれば、多分、違う。
賢い人は好きだけれど、ずる賢い人は好ましくはないし、それほど賢くなくても誠実で情熱があれば、きっと自分は好ましく思うだろう。
「好みのタイプは分からないけれど、私の初恋の相手はね、今も一緒にいるのよね」
「えっ」
フェリオンが動きを止めた。
こちらを食い入るように見てくる。その頬が少し赤らんで見えるのは、温かいものを食べたからか。
「といっても、今は町の外でお留守番ね」
「あ?」
「幾つの時だったかしら。傍に寄れるまで、ずっとお兄さまが羨ましくて仕方がなくてね。初めて触れた時は……」
「んん? おいロクサーナ、俺は真面目に――」
「あら、ふふ。真面目に答えているわよ?」
不満そうなフェリオンの声を軽くあしらう。
そうしながら、ロクサーナはマスターのいるカウンターへと歩き出した。
◇◇◇
酒場を出て、蒸気時計のある広場に戻る。マスターからは手書きの地図で、宿までの道を教えてもらった。どうやら先に食事を終えて話していたルックが、マスターに宿を尋ねてくれていたらしい。できるだけ安価でありながら、小綺麗な宿。表通りに近く治安もそう悪くないからと。
結局、何から何まで世話になっている。この町を出る時には、挨拶の一つでもしていかねば罰が当たりそうだ。
ロクサーナは馬の手綱を持ちながら、ちらと隣に視線をやった。フェリオンが
広場を過ぎ、道を左に折れる。煉瓦造りの壁に看板を下げた商店が立ち並ぶ間を歩いていくと、気付いたことがあった。徐々に、目にする人々が少なくなっていくのだ。門から町に入った時に感じた賑やかさが、すっと不思議なほど薄れてしまった。ルックと歩いている時には気付かなかった変化だ。
「なんか……寂しい感じだな」
フェリオンも気付いたのだろう、顔を上げ、辺りを見回している。
「そうね……」
これほど発展している町ならば人口も多いだろうと思ったが、どうやらそうでもないのかもしれない。どこまでいっても人だらけだったエトラ・プラートは当然としても、もしかしたらファル・ハルゼよりも人が少ないのではないかと思う。閉まっていると思われる店もちらほらと見られる。しかも、随分と時が経っているのか、最早放置されているといって良いくらいの店もあるのだ。大きなガラス窓から見える内装が整頓されていず、
不意に、通りの向こうで瓶が割れるような音が聞こえた。その後すぐ、言い争うような声が耳に届く。その声には、確かな聞き覚えがあった。
「フェリオン! 馬は任せるわ、後から来て!」
持っていた手綱をフェリオンに任せ、ロクサーナは迷わず声のする方へ駆けた。
二つ先の路地を覗き込み、ロクサーナは足を止めた。薄暗い路地裏の奥には男が二人、赤いシャツの女が一人。そしてやはり、先頃別れたルックの姿があった。壁に背を預ける形で、ルックがその姿勢を崩していく。女は彼らから一歩離れた壁に腕組みをしながら凭れており、ルックの前にいる男たちが、手にしたナイフを振り上げる――。
ロクサーナは咄嗟に息を吸い込んだ。
「何をしているのです!!」
そう声を上げれば、男たちが肩を跳ねさせ動きを止めた。
「ずらかるよ!」
こちらを一瞬見た女の号令が飛んだ。男たちがルックから離れ、女を追いかけるようにして慌ただしく逃げていく。向こう側へと逃げた彼らを追いかけることはせず、ロクサーナはルックに駆け寄った。
「ルック!」
壁を背に座り込んでいるルックは、腕や足に怪我をしているようだ。だらりとした左腕を見る限り、もしかしたら折れているのかもしれない。地面には割れた瓶が転がっている。焦げ臭さに混じった微かな血の
「やぁ……、お嬢さん。情けないところを見られちまったな。……助かったよ」
見上げてきたルックが、眉尻を下げて笑った。
「一体何が?」
「ゴロツキどもさ。まさか、あんな美人に
片手を挙げ、肩を
「手当てをしましょう。誰かを呼んできます」
「いや、呼ばなくていい。呼ばないでくれ。ちょっとだけ、手を貸してくれないか」
「でも」
「頼むよ、お嬢さん」
立ち上がろうとするルックを止めようとするも、彼はどうしても立ち上がりたいらしい。仕方なく、ロクサーナは彼の動作を助けた。
「ふぅ~~」
長く、ルックの溜息が吐き出された。壁に背を預けてようやく立てている状態に見える。
「参ったね」
自嘲気味に、ルックが呟いた。
怪我をしたことを、公にしたくないのだろうか。叫び声を聞き付けて路地を覗き込みに来ている数人を横目で確認し、ロクサーナはルックの意向に添うことにした。出血量はそう多くはない。今すぐ命に別状はないだろう。
「ロクサーナ! 何があったんだ!?」
馬の蹄の音と共に駆け込んできたフェリオンが、人々を押し退けて驚いた顔を見せた。
「ひでぇ怪我……、ここへ来る途中、慌てて逃げる連中があっち側から来て擦れ違ったけど」
「赤いシャツの女はいた?」
「いた」
「なら、それね」
彼女たちに出くわしたフェリオンに驚き、何事も起こらなかったことにホッとする。
「フェリオン。何でもない、大丈夫だってあの人たちに言ってきてくれる?」
「ああ、分かった」
路地を覗いてきている者たちを
ロクサーナはルックに振り返った。
「ルック。
「お嬢さんが肩を貸してくれるのかい?
「ご心配なく。多分、大丈夫です」
怪我をしているのは右足のようだ。ロクサーナはルックの右側から、ルックの右腕を自身の肩に回させた。他人に思われているより、力がある自信がある。もし、ルックが手を貸したくらいでは動けないなら、馬を使う手もある。荷馬だが、引いて歩く分には、載せるものは荷物も人も変わらない。
「遠慮せず、体重をかけてください」
ルックの左腰に手を掛けて持ち上げ気味に支え、壁から離れさせる。長身のルックを支え、まずは一歩、二歩とゆっくり進んでもらった。なんとか歩けはするようだ。
肩口で、ルックの微かな笑い声が聞こえた。
「……ありがとう、お嬢さん。情けない俺をシュナイダー商会へお願いできるかい?
「それを聞いて、安心しました」
ティアリーの捜索はひとまず後回しにせざるを得ない。通りで待っているフェリオンにも異論はないようだ。ルックを見ているフェリオンの顔には、心配が浮かび上がっている。
集まっていた人々の多くはフェリオンがうまく解散させてくれたようだ。
できるだけルックの歩みを妨げないようにしながら、ロクサーナは慎重に路地を出た。
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