第38話 シュナイダー商会
シュナイダー商会というのは、ルックの
大きな通りに面しており、広い庭があり、三階建てで奥にも広そうな邸宅である。隣には倉庫群があるようで、視界を遮っている塀の上に三角屋根が連なっている。そちらにも門があり、労働者らしき者たちの出入りが見られた。
ロクサーナはルックを支えたまま、奥に邸宅が見えている方の鉄製の門に近付いた。二人の門番がこちらに気付いたようだ。驚いたような表情と共に、声が上がる。
「ルックさん! 一体どうしたんです!?」
「ああ~ちょっとな。ひとまず彼女たちも一緒に中へ入れてくれ。それと、旦那さんに連絡を頼む」
「わ、分かりました! どうぞ」
ルックの指示に、門番たちが慌てた様子で門を開いてくれた。その内の一人が奥へと駆けていく。
ロクサーナはフェリオンを振り返って
「フェリオン、ここで馬と荷物を見ていてくれる?」
「ああ」
「ありがとう。なるべく早く戻るわ」
ひとまずは、ルックを
辿り着いたのは、広々とした客間だった。中央には猫脚の長椅子が向かい合わせに置かれており、その間には楕円形で金縁の
奥には中庭があるようだ。その近くにも
ひとまず、ロクサーナはルックをその長椅子へと慎重に座らせた。左腕が背凭れに触れたのか、ルックの眉間に深い
「ふぅ~、助かったよ、お嬢さん」
「どういたしまして」
目的地へ無事辿り着けたことに、ロクサーナは安堵した。ルックの顔色は悪いが、悪すぎるほどではない。
傍のテラス窓は開かれており、中庭の大きな緑葉の植物が彩りを添えている。覗き見てみれば草花は整えられて咲いており、よく手入れされているように思われた。四方を囲むように部屋が見える。どこからでも庭に出られるようになっているのだろう。
落ち着いた色のカーテンを壁に留めているタッセルの房飾りは、優しい羊の毛色だ。明るく華やかでいて落ち着きがあり、中庭を含むこの客間は、実に好ましい空間である。
そこへ、
「ルック! 怪我をしたって!?」
慌てたような男の声に振り返れば、白髪混じりの髪と髭の男の姿があった。白髪混じりといっても全体的に清潔感があり、後ろへと流されている前髪は優しげなラインを
彼を追いかけるようにして、二人の男女もやってきた。一人は灰色のシャツの丸眼鏡の男で痩せ型、女は赤褐色の髪を一つに
「すまねぇ、馬鹿やっちまって」
「まったくですわ! どれほど大切な時期か分かっているはずでしょう!
怪我を免れた右手で頭を掻いたルックを𠮟りつけたのは、女の方だった。怒っているような態度とは裏腹に、その真剣な眼差しからはルックを心配しているのが見て取れる。そんな彼女に対し、ルックが眉尻を下げ、申し訳なさそうに彼女を見上げた。
「ごめんな、ソフィー」
「本当に
ソフィーと呼ばれた彼女の目が、今にも泣き出しそうに
その時、大きな人影が部屋に入ってきた。気配に首を巡らせたロクサーナは、その巨漢が放つ迫力に思わず体ごと向き直り背を伸ばす。しかし、その黒スーツの巨漢はロクサーナとルックをチラリと見ただけで、無言のまま主人と思われる初老の男の後ろに立った。どうやら護衛のようだ。
ロクサーナは自分が知らずに拳を固めていたことに気付いた。愛用の
「ソフィー、フィンと一緒に、ひとまず部屋でルックの手当をしておあげ。落ち着いてから、話をしよう。いいかい、ルック」
「はい、本当に、すみません……!」
初老の男の促しに、悲壮感さえ漂わせ、心底落ち込んだ様子でルックが頭を下げた。やはり彼がルックの
「だ、旦那さん! この
「ああ、分かった。とりあえず、お前はしっかり手当てをしてもらいなさい」
初老の男が
「お嬢さん! 絶対に居てくれよ、頼む! ちゃんとお礼をさせてくれ!」
「え、あ、」
困った。ルックを送り届けたからには、もう後は宿に行くだけなのだ。そんなに必死に礼をしようとしなくても良いのにと思う。
ほんの小さな溜息が、ロクサーナの耳に届いた。ルックを見送っている初老の男が漏らしたものだろう。
振り向いた男の頬は、困ったように緩められていた。
「挨拶が遅れて大変申し訳ありません。私はシュナイダー商会のアンスフェルム・シュナイダーと申します。この度はうちの者が大変ご面倒をおかけしたようで……。お助けいただき、誠にありがとうございました」
丁寧な挨拶が伸べられた。そのことにロクサーナは内心で感心しながら、それに応じる。
「ロクサーナと申します。こちらこそ、彼には助けていただいたのです。気にしないようお伝えください」
ルックはここで治療してもらえるようであるし、もう心配は
「では、連れを待たせていますので、私はこれで……」
「お待ちください。つかぬことをお聞きしますが、今夜の宿はもうお取りに?」
「え? いえ、これからです。彼に紹介された宿が通りの向こうに。
初老の男――アンスフェルムは、こちらを旅の者でこの町に着いたばかりだと想定しているようだ。ロクサーナは驚きを隠さずに問い掛けた。
アンスフェルムが、その柔和な笑みを深くする。
「ぶしつけで申し訳ありません。旅装束の具合を見て、そうであろうかと……。もし支障がなければ、ここに
「それは……」
旅装束の具合、と言われ、ああ、とロクサーナは納得した。
アンスフェルムが
「この町のことも、ご案内できますよ。もう少ししたら、今抱えている仕事が落ち着きます。旅に出る予定なのですが、ぜひ、その前に何かお手伝いをさせてください」
そこまで言ったアンスフェルムが、ほんの少し、その眼差しを曇らせた。
「今は少し、寂しい町ではありますが」
そう言われ、ロクサーナはここへ来るまでに見た商店の様子を思い出す。確かに、表通り以外は
ロクサーナは
◇◇◇
フェリオンは、二頭の馬と共に門の傍で待機していた。ルックを託したら、すぐに宿へと向かうつもりなのだろうと、荷も積んだままだ。
ミュウと鳴いた
『ミュッ、ミュッ 』
「あー、アレ欲しいのか?」
そう問えば、
「仕方ねぇなぁ」
ポケットの中へ片手を突っ込めば、木の実が一粒だけ残っている。それを摘まんで
ティアリーも好きだったなぁ、と思う。ロクサーナが共にいなかった晩餐会の夜などは、ティアリーが木の実をあげ、それを
「ほら、最後の一粒だぞ。味わって食べろよ」
「よしよし、お前たちにも後で食わせてやるからな」
そうやって
門番と女の声がする。
「お帰りなさい、コルノーさん。お嬢様も」
「ありがとう、少し遅くなってしまったわ。旦那様はまだ倉庫かしら――あら、お客さま?」
「ええ、ルックさんとお客人がいらしています」
会話から、この家の者たちなのだろうと思う。フェリオンは馬たちを、もう少し端へ寄せようとした。挨拶をした方がいいのだろうか、それともこのまま馬の陰にいた方がいいだろうか――。そう迷っていると、背後に近付く軽い足音があった。それが止まったかと思えば、驚いたように息を吸い込む空気の揺らぎが耳に届く。
「おにいちゃん!? どうしてこんな所にいるの!?」
「えっ……」
フェリオンは、声の主が誰なのかを考える前に振り返っていた。目の前に立っていたのは、幼い少女だ。
声が出なかった。これは夢なのかと思う。でなければ、こんなふうにティアリーが目の前に現れることなどないだろう。怪我をしているようには見えないし、顔色もいい。見たことのない高そうな服を着ていて、どこも汚れていない。栗色の髪の一部は綺麗に編み込まれており、一見、金持ちの小さなご令嬢だ。
「おにい……」
自分を見つめる大きな瞳が潤み、ぼろぼろと涙を零し始めた。可愛らしい顔がくしゃくしゃになり、泣きながら抱き付かれる。確かなその感覚が、抱き付かれた腰元に伝わってきた。
「う、うわぁーん! おにいちゃぁぁん!」
声を上げて泣き出したティアリーの声は、フェリオンがずっと、ずっと聞きたかったものだった。感情が爆発したような声と、熱いくらいの温かさが、ティアリーの存在をありったけの熱量で現実なのだと伝えてきている。
「ティア」
やっと、声が出た。
掠れたような声が出た後は、湧き上がる感情に呑まれる。喉が震えて言葉にならない。
フェリオンの口から上がるのは、ただただ、泣き声だけだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます