第18話 谷底の一夜
「ここ……どこなのよぅ……」
ロクサーナは岩陰に身を寄せ、心細さに嘆息した。
生きていたのは幸運だった。体は完全に重力に捕らわれていた。いずれ致命的な衝撃と痛みが訪れることは、避けられない事態の
落ちるスピードをなんとか殺そうと、目に入った枝や岩に手を伸ばすも、完全に捕まえることはできなかった。とうとう体が斜面から離れ、宙に浮いた。まともに思考できないまま衝撃と痛みと歪む視界でごちゃごちゃになって――気付けば水流の中から這い上がっていたのだ。
まず、生きていることに驚いた。
痛みと苦しさを感じることで、ここが現実世界なのだと実感できた。そして
思い返せばあの時――、フェリオンをグレンダの方へ突き飛ばし、谷へ落ちようとしていたあの時。
少しは落下スピードを殺せていたこと、それに加え下が隆起物のない深い川だったことが幸いし、叩きつけられる衝撃で死ぬことは
ロクサーナは膝の上に乗せている
もし、
「クロちゃん……、ごめんね……っ、起きて、クロちゃん……っ」
呼び掛けながら何度
痛みに誘われて自らの腕を見てみれば、あちこちに深い切り傷や擦り傷ができている。C.L.A.U.-1を拭いた後のシャツ――残念なことに、フェリオンからもらった花は胸ポケットには残っていなかった――を引き裂いて包帯代わりにした部分には、血が滲んできている。体の他の部分も痛むが、幸い、骨は折れてはいないようだ。これまで感じたことのない強い痛みを息を吐くことで逃がしながら、大丈夫、と自分自身にもう何度も言い聞かせている。
見上げれば、薄闇の空に仄かな星の輝きが見えた。ここは木々に覆われた谷で、両側は切り立った崖になっている。落ちてきた崖の傍にあった滝の姿は見られず、それらしき音もしない。勢いよく流れる川の水音だけが、やけに大きく聞こえている。おそらくは、あそこから随分と流されてしまったのだ。
薄らと見えていた視界は、徐々に悪くなってきた。この山にも原生動物はいるだろう。そう考えれば、緊張で背筋が
もう少し傷の痛みが引いたら、無理にでも動いて川に沿って移動してみた方が良いだろうか?
それともここで救助を待ち、朝まで動かない方が良いだろうか?
そもそも――見つけてもらえるのだろうか。
後ろ向きな考えが浮かび、ロクサーナは大きく
『……ミュ~』
その時、膝の上に置いていた
「クロちゃん……!」
ロクサーナは驚き、歓喜のままに
「ああ――、良かったあぁ……っ」
今度は嬉し涙で視界が歪む。
そのまま、
「クロちゃん、ありがとう。あなたってビックリするくらい頑丈なのね。ね、ここ
自然と言葉数が多くなるが、ひとまずは一つ、心配事は減った。
獣の遠吠えが聞こえ、緊張する体でC.L.A.U.-1を抱く腕に力を込める。
「……ヴァージル。私を見つけて」
届かないと分かっていながら、ロクサーナは呟いた。
ヴァージルと
「何もかもが遠いわね……」
故郷のザルドは、更に遠い。
家族の顔が思い出される。父母も兄も、きっと心配してくれているだろう。いつも髪を梳いてくれたタニアは元気にしているだろうか? よく
そう思ってから、ロクサーナは溜息と共に首を左右に振った。こんなところで、まだ死ぬわけにはいかないと、思い直す。が、いかんせん、陥っている状況が宜しくなかった。体さえ動けばと思うが、今は到底無理だ。痛みを堪えてどうにかできる
「クロちゃんも……本当にごめんね」
ロングパンツのポケットに残っていた木の実の存在を思い出し、食べさせてやれば、こんな状況でも嬉しそうな声が上がった。それが、暗くなりそうな気持ちを少しばかり救ってくれる。
モゾモゾと動き出した
「クロちゃん?
ロクサーナは不安を感じながらも、その姿を見守るしかなかった。出っ張った岩や生えた枝を器用に乗り越えながら、C.L.A.U.-1は登っていく。落ちないようにとハラハラしながら見守るうち、暗闇に呑まれるようにC.L.A.U.-1の姿は見えなくなった。
途端に寒さを覚えたロクサーナは、自身の両腕で体を抱いた。濡れた体が冷えてきている。少し熱っぽい気もする。お腹も空いているし、なんだか眠くなってきた。これは
「――ん、」
遠くで
独りでいれば心細さが強まってしまう。実際はそれほど経っていないのかもしれなかったが、ロクサーナにとっては酷く長い時間だった。少しは目が慣れてきて、周囲の岩の輪郭が見えてくる。そのうちに近付いてくる知った音と、膝に幾つかの機械脚がかかった感覚があり、ロクサーナは
「クロちゃん……! もう
抱き上げ、ぎゅうっと抱き締めれば、C.L.A.U.-1がミュウ、と小さな鳴き声を上げた。
『――マスター、ご無事ですか?』
「えっ、……ヴァージル!?」
ふいにヴァージルの声がした。
ロクサーナは驚きのまま
「ほんとにヴァージルなの!」
『イエス、マスター。ご無事……ですね?』
「ええ、生きているわ! 大丈夫よ。でもお腹が空いたの。もう倒れそうなくらい」
何を言っているのと思いながら、ロクサーナはヴァージルに話しかけ続けた。
「ねぇ、今
『今は村から離れて、
「ふふっ、そうでしょ」
笑っている自分に気付き、ロクサーナは驚いた。不思議なことに、先程までの心細く悲観的な気持ちなど、
『ウィンディに
「うん。うん、ありがとうヴァージル……!」
すっかり元気を取り戻した気持ちが、不思議と体にも力を戻してくれる気がする。鼓膜を震わせるヴァージルの声に、胸が驚くほど安心感で満たされていくのが分かる。
「ねぇ、お願い、少しの間でいいから、こうして話していて。ヴァージルの声って、すごく安心できるの」
ロクサーナは素直な気持ちを口にしていた。ここは
「だめ?」
返って来ない返事に、
『……そのような顔を他では
「ヴァージル!」
まだ通信が繋がっていたことに、ロクサーナは喜んだ。言われた小言に構わず、
『ロクサーナ』
「分かったわ、他ではしない」
こんな状況だというのに、この弾む気持ちは何だというのだろう。耳元で聞こえるバリトンボイスが、自分にとって特別だということは間違いないように思う。
「ねぇ、フェリオンはどうしているかしら」
フェリオンを助けるために仕方がなかったとはいえ、目の前で崖から落ちる姿を彼に見せたかったわけではない。案外真面目な少年が落ち込んだりはしていないだろうかと、心配になった。
『心配は無用です。フォルーズに戻っていますので』
「そう、良かったわ。約束を守ってくれたのね」
今回の旅へ出る前に言い聞かせた時のフェリオンを思い出し、安堵した。しっかりと頷いていた通り、ユーインの指示に従ってくれたのだろう。戻ったら、褒めてやらねば。
『
「ん?」
『今回は、無茶が過ぎました』
「うーん、そうね。さすがに危なかったわ」
『今後は、もう少し自重してください。
「それって、私がザルドの公女だから? それとも」
『
私のマスター。
その響きが、どこかくすぐったく感じる。
「嬉しいわ、ヴァージル」
ロクサーナは
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