第18話 谷底の一夜

「ここ……どこなのよぅ……」


 ロクサーナは岩陰に身を寄せ、心細さに嘆息した。


 生きていたのは幸運だった。体は完全に重力に捕らわれていた。いずれ致命的な衝撃と痛みが訪れることは、避けられない事態のはずだったのだ。


 落ちるスピードをなんとか殺そうと、目に入った枝や岩に手を伸ばすも、完全に捕まえることはできなかった。とうとう体が斜面から離れ、宙に浮いた。まともに思考できないまま衝撃と痛みと歪む視界でごちゃごちゃになって――気付けば水流の中から這い上がっていたのだ。


 まず、生きていることに驚いた。

 痛みと苦しさを感じることで、ここが現実世界なのだと実感できた。そしてC.L.A.U.-1クロウ・ワンが共に居ることに、その時ようやく気付いたのだ。


 思い返せばあの時――、フェリオンをグレンダの方へ突き飛ばし、谷へ落ちようとしていたあの時。C.L.A.U.-1クロウ・ワンがフェリオンを蹴り、こちらへ跳び移ってきていたように思う。しかし、樹々の中を落ちていた時には、C.L.A.U.-1を抱いている感覚はなかった。ということは、C.L.A.U.-1はわざわざ背中側へ回ってしがみ付いていたことになる。そういえば、後頭部を機械脚で掴まれていた気もする。


 少しは落下スピードを殺せていたこと、それに加え下が隆起物のない深い川だったことが幸いし、叩きつけられる衝撃で死ぬことはまぬがれたのだろう。そして何よりC.L.A.U.-1クロウ・ワンが後頭部から首や背中を守ってくれたからこそ、こうして、まだ、生きている。


 ロクサーナは膝の上に乗せているC.L.A.U.-1クロウ・ワンを見つめながら、その体を優しく撫でた。水から引き上げた後、着ていたシャツを脱いで絞り、くまなく拭いてやったのだが――、動きもせず、鳴きもしなくなっているのだ。水に浸けても大丈夫なことは知っているが、受けさせてしまった衝撃が心配だった。


 もし、壊れて死んでしまっていたら。そう考えることを、ロクサーナは頑なに拒否し続けている。


「クロちゃん……、ごめんね……っ、起きて、クロちゃん……っ」


 呼び掛けながら何度C.L.A.U.-1クロウ・ワンの体を撫でても、ぴくりとも動いてくれない。また涙でC.L.A.U.-1を濡らしてしまいそうになり、ロクサーナは痛む腕で自身の頬をぬぐった。


 痛みに誘われて自らの腕を見てみれば、あちこちに深い切り傷や擦り傷ができている。C.L.A.U.-1を拭いた後のシャツ――残念なことに、フェリオンからもらった花は胸ポケットには残っていなかった――を引き裂いて包帯代わりにした部分には、血が滲んできている。体の他の部分も痛むが、幸い、骨は折れてはいないようだ。これまで感じたことのない強い痛みを息を吐くことで逃がしながら、大丈夫、と自分自身にもう何度も言い聞かせている。

 

 見上げれば、薄闇の空に仄かな星の輝きが見えた。ここは木々に覆われた谷で、両側は切り立った崖になっている。落ちてきた崖の傍にあった滝の姿は見られず、それらしき音もしない。勢いよく流れる川の水音だけが、やけに大きく聞こえている。おそらくは、あそこから随分と流されてしまったのだ。


 薄らと見えていた視界は、徐々に悪くなってきた。この山にも原生動物はいるだろう。そう考えれば、緊張で背筋が強張こわばる。しかし、獣避けに火を焚くことも叶わない。襲われた場合、無事だった細剣レイピアで最低限の威嚇をするくらいの手立てしかない。


 もう少し傷の痛みが引いたら、無理にでも動いて川に沿って移動してみた方が良いだろうか?

 それともここで救助を待ち、朝まで動かない方が良いだろうか?

 そもそも――見つけてもらえるのだろうか。


 後ろ向きな考えが浮かび、ロクサーナは大きくかぶりを振った。怖くない。そう思わなければ、心細さに挫けてしまいそうだ。


『……ミュ~』


 その時、膝の上に置いていたC.L.A.U.-1クロウ・ワンから、小さな声が上がった。


「クロちゃん……!」


 ロクサーナは驚き、歓喜のままにC.L.A.U.-1クロウ・ワンを両手で持ち上げた。うごうごと動き始めた脚も全て無事のようだ。膝に降ろすと、胸元に這い上ってきて甘えるように鳴き始める。下着だけの上体に冷たく硬い脚が触れているが、加減が分かっているのか痛くはない。そんなC.L.A.U.-1を両腕で抱き締め、ロクサーナは、天を仰いで安堵の深い溜息を吐いた。


「ああ――、良かったあぁ……っ」


 今度は嬉し涙で視界が歪む。

 そのまま、C.L.A.U.-1クロウ・ワンの体に頬を押し付けた。


「クロちゃん、ありがとう。あなたってビックリするくらい頑丈なのね。ね、ここ何処どこだと思う? 私は今ちょっと動けないの。骨は折れていないみたいなのよ、だから大丈夫」


 自然と言葉数が多くなるが、ひとまずは一つ、心配事は減った。

 獣の遠吠えが聞こえ、緊張する体でC.L.A.U.-1を抱く腕に力を込める。


「……ヴァージル。私を見つけて」


 届かないと分かっていながら、ロクサーナは呟いた。


 ヴァージルとC.L.A.U.-1クロウ・ワンは通信機能を備えているが、その範囲には限界がある。間の障害物も、超えられないものがある。あの村からここには距離的に無理があり、更にこの谷の底では障害物が高すぎる。このまま誰にも見つけられなければ、ここで人生の終わりを迎える可能性だってあるだろう。


「何もかもが遠いわね……」


 故郷のザルドは、更に遠い。

 家族の顔が思い出される。父母も兄も、きっと心配してくれているだろう。いつも髪を梳いてくれたタニアは元気にしているだろうか? よく細剣レイピアの手合わせに応じてくれたヘクターは、兄の元で腕を磨いているだろうか。いずれはブリガンダインと共に、皆の元へ帰らねばならなかった。それに、フェリオンとティアリーだ。こんなふうに放り出すなど、まったく酷い保護者ではないか。


 そう思ってから、ロクサーナは溜息と共に首を左右に振った。こんなところで、まだ死ぬわけにはいかないと、思い直す。が、いかんせん、陥っている状況が宜しくなかった。体さえ動けばと思うが、今は到底無理だ。痛みを堪えてどうにかできる範疇はんちゅうを超えている。


「クロちゃんも……本当にごめんね」


 C.L.A.U.-1クロウ・ワンだけでも村に戻れたらと考えてみたが、冷静に考えて、それはすぐには無理だという結論に至った。C.L.A.U.-1にとっても初見の土地で、なによりC.L.A.U.-1の歩みは遅いのだ。


 ロングパンツのポケットに残っていた木の実の存在を思い出し、食べさせてやれば、こんな状況でも嬉しそうな声が上がった。それが、暗くなりそうな気持ちを少しばかり救ってくれる。


 モゾモゾと動き出したC.L.A.U.-1クロウ・ワンが、胸元から下りていく。膝からも降りたC.L.A.U.-1は、そのまま、傍の崖を登り始めた。


「クロちゃん? 何処どこいくの」


 ロクサーナは不安を感じながらも、その姿を見守るしかなかった。出っ張った岩や生えた枝を器用に乗り越えながら、C.L.A.U.-1は登っていく。落ちないようにとハラハラしながら見守るうち、暗闇に呑まれるようにC.L.A.U.-1の姿は見えなくなった。


 C.L.A.U.-1クロウ・ワン自身は周りが見えているのかと疑問に思うが、ヴァージルが暗くしたコックピット内も自由に這い回っているC.L.A.U.-1だ。おそらくは見えているのだろう。


 途端に寒さを覚えたロクサーナは、自身の両腕で体を抱いた。濡れた体が冷えてきている。少し熱っぽい気もする。お腹も空いているし、なんだか眠くなってきた。これは不味まずい――そう思ったが、瞼は勝手に下りてきた。




「――ん、」


 遠くでC.L.A.U.-1クロウ・ワンが鳴く声がした気がし、ロクサーナは目を覚ました。いつの間にか眠っていたらしいが、どのくらいの時間が経ったのかは分からない。辺りはすっかり暗くなっている。崖を見上げても、星空が見えるだけでC.L.A.U.-1の姿を見つけられない。


 独りでいれば心細さが強まってしまう。実際はそれほど経っていないのかもしれなかったが、ロクサーナにとっては酷く長い時間だった。少しは目が慣れてきて、周囲の岩の輪郭が見えてくる。そのうちに近付いてくる知った音と、膝に幾つかの機械脚がかかった感覚があり、ロクサーナはC.L.A.U.-1クロウ・ワンが戻ってきたことを知った。


「クロちゃん……! もう何処どこにも行かないでここに居て……」


 抱き上げ、ぎゅうっと抱き締めれば、C.L.A.U.-1がミュウ、と小さな鳴き声を上げた。


『――マスター、ご無事ですか?』

「えっ、……ヴァージル!?」


 ふいにヴァージルの声がした。

 ロクサーナは驚きのままC.L.A.U.-1クロウ・ワンを両手で胸元から剥がし、顔を突き合わせた。


「ほんとにヴァージルなの!」

『イエス、マスター。ご無事……ですね?』

「ええ、生きているわ! 大丈夫よ。でもお腹が空いたの。もう倒れそうなくらい」


 何を言っているのと思いながら、ロクサーナはヴァージルに話しかけ続けた。


「ねぇ、今何処どこにいるの? どうやってここが?」

『今は村から離れて、貴女あなたのいる谷に電波が届く位置にいます。移動しながらC.L.A.U.-1シー・エル・エー・ユー・ワンの発する電波を探していました。それが優秀な愛玩機械ペットだと認めましょう』

「ふふっ、そうでしょ」


 笑っている自分に気付き、ロクサーナは驚いた。不思議なことに、先程までの心細く悲観的な気持ちなど、何処どこかへ行ってしまっている。


『ウィンディに貴女あなたの位置を送信しました。ユーインがウィンディでそちらに向かいます。時間はかかるかもしれませんが、それまでは持ち堪えてください』

「うん。うん、ありがとうヴァージル……!」


 すっかり元気を取り戻した気持ちが、不思議と体にも力を戻してくれる気がする。鼓膜を震わせるヴァージルの声に、胸が驚くほど安心感で満たされていくのが分かる。


「ねぇ、お願い、少しの間でいいから、こうして話していて。ヴァージルの声って、すごく安心できるの」


 ロクサーナは素直な気持ちを口にしていた。ここはC.L.A.U.-1クロウ・ワン以外誰もいない場所だ、外界から隔離されたコックピットとそう変わらないということにしよう。正直、甘えたい気分なのだ。ものすごく。


「だめ?」


 返って来ない返事に、C.L.A.U.-1クロウ・ワンと顔を突き合わせたまま小首を傾げてみせる。ヴァージルには、多分見えているはずだ。いや、もう通信が切れていたら痛い行為だろうが、まぁC.L.A.U.-1以外は見ていないのだ、問題ない。


『……そのような顔を他ではさらないでください。いいですか』

「ヴァージル!」


 まだ通信が繋がっていたことに、ロクサーナは喜んだ。言われた小言に構わず、C.L.A.U.-1クロウ・ワンを抱き締め頬を寄せる。


『ロクサーナ』

「分かったわ、他ではしない」


 こんな状況だというのに、この弾む気持ちは何だというのだろう。耳元で聞こえるバリトンボイスが、自分にとって特別だということは間違いないように思う。


「ねぇ、フェリオンはどうしているかしら」


 フェリオンを助けるために仕方がなかったとはいえ、目の前で崖から落ちる姿を彼に見せたかったわけではない。案外真面目な少年が落ち込んだりはしていないだろうかと、心配になった。


『心配は無用です。フォルーズに戻っていますので』

「そう、良かったわ。約束を守ってくれたのね」


 今回の旅へ出る前に言い聞かせた時のフェリオンを思い出し、安堵した。しっかりと頷いていた通り、ユーインの指示に従ってくれたのだろう。戻ったら、褒めてやらねば。


貴女あなたは』

「ん?」

『今回は、無茶が過ぎました』

「うーん、そうね。さすがに危なかったわ」


 C.L.A.U.-1クロウ・ワンがいなければ、そして幾つかの幸運が重ならなければ、こうしてヴァージルと話すことはできなかっただろう。でももう一度あの時に戻っても、きっと同じことをする。それは変わらないわね、とロクサーナは思った。


『今後は、もう少し自重してください。貴女あなたうしなうことなどあってはならないのです』

「それって、私がザルドの公女だから? それとも」

貴女あなたが私のマスターだからです、ロクサーナ』


 私のマスター。


 その響きが、どこかくすぐったく感じる。


「嬉しいわ、ヴァージル」

 

 ロクサーナはC.L.A.U.-1クロウ・ワンを抱き締め直し、自然と緩む口元を隠す。そうして、できるだけ長くヴァージルのマスターでいられればと、密やかに願った。



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