第26話 ケモカイン-1

「あれ・・・まだ残ってたんですかー、麻生さん」


研究所ラボのドアが開いて、社員証を手にしたまま私服姿の雫が驚いた顔で突っ立っている。


白衣を脱いだ彼女はいつもの数倍幼く見える。


いつも施設の中では白衣を着ているから、辛うじて研究者だと認識はされているけれど、私服で街をうろつけば、間違いなく高校生扱いされるはずだ。


西園寺のオメガ姫が、繁華街をウロウロするわけもないのだけれど。


童顔を気にしているらしい彼女はいつも大人びたメイクをしているが、洋服だけは自分の好みに合わせたものをどうしても着たいらしく、いつも可愛いワンピースやスカートを身に着けている。


茜が治験で雫と会うたび、毎回可愛い可愛いとはしゃいだ声を上げているところを見ると、やっぱり茜も女子だな、と思う。


彼女の場合は動きやすさ重視のパンツスタイルが常だけれど。


そういえば、茜が真尋の前で自分の格好を気にしたことはない。


買い物に行くときも、デニムのカジュアルな恰好だし、かろうじて化粧はしているが、誰かの気を引くためのメイクなんて見たことが無い。


茜が初めて嫌悪感を抱かずに済んだアルファの顔がちらっと過った。


あの男と出かける時には、自分が見たこともないような洋服を着て、念入りに化粧するんだろう。


真尋と買い物に出かける時のように、間違っても寝坊したりはしないだろうし、何十分も車で待たせたりはしないはずだ。


だって彼は身内ではないのだから。


「姫、おまえほんと幼いな」


茜と雫が並ぶと、尚更雫の幼さが際立つのだ。


いつもは遠慮して我慢していることを、ついぽろっと口にしてしまった。


「・・・私の童顔弄ってくるってことは、参ってるんですねー?」


「おまえのその観察眼が今日は憎い」


図星を突かれて机に突っ伏す。


「橘田さんの検査結果良かったですし、心配事はないはずですがー?」


真尋が渋面を作るのは、茜にまつわることだけだとばれているのだ。


付き合いが長いせいで、気づかれたくないことまで見抜かれてしまう。


雫の言う通り、治験は順調で茜の体調も問題なし。


ネックになっていたアルファ嫌いも、苦手ではないアルファが出て来たということは治りつつあるということだ。


すべてが滞りなく進んでいる。


それなのに、一向に真尋の気分は晴れない。


「っていうか、今日はオメガ療養所コクーン行かなかったんですね?今週橘田さん通常シフトだから絶対顔見に行くと思ってたのに」


治験の担当である雫と真尋には、茜のシフトを共有してある。


治験を初めてすぐに頃は、毎日のように送り迎えをして体調の変化を見落とすまいと必死になっていた。


この1、2年は目立った異変もなく、突発的な発情トランスヒートを起こすことも年に一度あるかないか。


茜に友人が出来たこともあって、真尋は一時期のように茜のそばに張り付かなくなっていた。


それでも週に二度はオメガ療養所コクーンに様子を見に行ってしまうのだが。


「・・・今日は残業」


「え?そうなんですか?」


「ほら、例の厚労省のマトリ」


オメガ療養所コクーンとメディカルセンターは同系列の為、常に情報連携がなされている。


マトリの研修日程は事前に告知されていた。


抑制剤の研究開発研究所ラボはとくに関わりが大きくなるし、抑制剤に関する研修は真尋たち所属研究者の役割なのだ。


真尋の苦り切った表情は無視して、雫がぽんと手を打った。


「ああ!視察研修中の?」


「そう。そっち優先でスケジュール組んでるから、しばらくは残業らしいわ」


「へええ・・・オメガ療養所コクーン大変ですねぇ。ごちゃごちゃ言わずに補助金増やしてくれればいいのに。私たちの血税なんだから」


「・・・それを言えりゃ苦労しねぇの・・・んで、おまえ何しに戻って来たんだ?こんな時間に」


時刻は20時を過ぎている。


遅くても19時までには雫を帰すように、それ以降になる場合は車通勤の課員が送ることが暗黙のルールとなっている彼女が、一人で研究所ラボに戻ってくるなんて珍しい。


西園寺の一族は、山の手に大きな屋敷を持っており、雫は体調が良い日は循環バスで通勤していた。


「今日読もうと思ってた論文忘れちゃって」


「おまえな・・・年頃の娘らしくファッション雑誌とか読めよ」


「それも読んでますー。あったあった・・・これで帰れる」


自席の上から論文の束を持ち上げた雫が、良かった良かったと一仕事終えたような顔になった。


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