第39話 メタボローム-1

「なに飲んだ?」


都築と横原への挨拶もそこそこに真尋の車に連れて行かれて、馴染みの道を走り出したところで質問が飛んできた。


これは、研究者としての質問だ。


だから茜も端的に必要な情報だけを口にする。


「桂花陳酒。一杯だけ。菜央さん飲むから付き合わないと申し訳ないし・・・それが気になって来たの?」


発情期ヒート近いだろ。念のためな」


発情期ヒートの前後はホルモンバランスが崩れるので、酔いが回りやすくなったり悪酔いすることがあるのだ。


とはいえ、酒量さえ間違えなければ具合が悪くなることは無い。


療養患者を卒業した直後は、些細な変化も不安で逐一真尋に確認を入れていたけれど、ここ数年はそれもなくなっていた。


抑制剤で発情期ヒートを上手くコントロール出来ている事と、根本的な不安が取り除かれたことが大きいな要因だ。


それを取り除いてくれた研究者を横目でちらりと伺う。


真尋が来る直前に都築から言われた台詞は、間違いなく口説き文句だったのだけれど、心がときめくよりも先に、お断りの文言を必死に考えようとしていた。


彼が嫌悪感を抱かないアルファだったとしても、同僚以上の関係になることなんてこれっぽちも考えられなかった。


それもこれも全部隣に居る真尋のせいだ。


「誰に訊いたの?お店のこと」


「そっち行ったらマネージャーの摂津さんに会って聞いた。わざわざ横原さんとセットでお前を外に連れ出すところが用意周到だよな。どうすりゃ断られないのか、よく分かってる」


苦い顔で零した真尋が苛立っているのは、自分の知らない場所で自分の担当のオメガが、アルファと一緒に居たせいだろうか。


それとも、名ばかりの義妹の体調が心配だったからだろうか。


「・・・・・・・・・体質の話は・・・職場ではしにくいから・・・・・・その為の配慮よ。菜央さんは妹さんがオメガだから、それで」


「体質の話だけ?」


「・・・・・・・・・・・・まあ、あとは・・・・・・色々」


「ふーん・・・・・・・・・桂花陳酒一杯だけにしては、やけに顔が赤いけどな」


赤信号で停まった拍子に、真尋がハンドルに身体を預けてこちらを窺ってきた。


自分では気づかなかったけれど、たしかに頬に触れた手がひんやりと冷たく感じられる。


オメガだと分かってから、アルファは勿論のこと、恋愛からも遠ざかっていた茜に、真っ直ぐに向けられた眼差しはどこまでも誠実だった。


オメガ療養所コクーンの同僚たちが、都築さん素敵だわ、とはしゃいでいた理由が今ならわかる。


あんな風に真正面から言われるまで、完全に彼を異性として見てすらいなかった茜に、あの真摯な告白はかなり大きな衝撃を与えた。


”親密になりたい”


アルファの性質を差し引いても、彼は素晴らしい好人物だと思うし、仕事に対する姿勢も、周りの人間への接し方も非の打ち所がないくらい完璧だ。


オメガとは別の意味でどこまでも注目を集めるアルファは、憧れの存在で、その分向けられる期待もかなり大きい。


麻薬取締官という特殊な職務を全うするために彼が背負った重責は計り知れない。


そんな彼が、心を赦したい、と茜に願ってくれた。


オメガであることも含めて、茜自身にそれを望んでくれたのだ。


認められた事実を嬉しい、と思った。


けれど、心は動かなかった。


自分心の中に、どれくらい真尋が存在しているのか、都築の言葉を受け止めた瞬間思い知らされた。


彼が最初に茜を訪ねてオメガ療養所コクーンにやって来たのは母親から頼まれたからだ。


自分では力になれないから、代わりに側に居てやって欲しいと、母親が真尋に願ったからだ。


真尋はその使命を全うして、どこまでも茜に向き合ってくれた。


時には研究者として、時には義兄として。


茜の側を離れない理由をいくつも用意してくれた彼のおかげで、茜は真尋の前でだけは自由で居られた。


母親の娘ではなく、孤独なオメガでもなく、昔と変わらない自分で居られた。


この関係はいつまで続けられるんだろう。


茜が真尋のフォローを必要としなくなるまで?


真尋が研究者として別のオメガを見つけるまで?


「・・・・・・ほんとに一杯だけか?」


伸びて来た手のひらで頬の温度を確かめるように包み込まれる。


この手をいつまで独り占めしていられるんだろう。


目を伏せて頷けば、真尋が視線をフロントガラスの向こうへと戻した。


優しいぬくもりが遠ざかっていく。


それを寂しいと感じてしまうのは、やっぱり酔っているからだろうか。


緩やかにアクセルを踏み込んだ真尋が、前を見たまま口を開いた。


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