第31話 トポイソメラーゼ-1

茜が起こした突発的発情トランスヒートは、パニック障害を併発していた。


オメガ性質はどうしても劣等感を抱かせる。


社会的弱者に落ちてしまった、という事実が余計心身を疲弊させるのだ。


彼女が抱え込んだストレスは想像に難くない。


茜は、オメガだと分かるまで絵に描いたような真面目で両親思いの娘として過ごしていた。


穏やかで平凡な家族を襲った茜の突発的発情トランスヒートは、茜だけではなく両親の心も疲弊させた。


身内がオメガであることを隠す家族は多い。


両親に負担を掛けているという事実がまた茜の心に暗い影を生み出して、それはいつまでも消えない。


茜がオメガ療養所コクーンで真尋に再会した時には、彼女は抜け殻のようになっていた。


次第に抜け落ちた感情を取り戻すにつれ込み上げてくる怒りはすべて自分自身に向けられるようになり、その矛先を自分に向けさせて吐き出させようと意図的に動いた真尋は、見事にサンドバッグになった。


顔を合わせれば帰れと怒鳴られて枕と抑制剤の袋を投げつけられるのが標準装備デフォルト


家族としてでは無くて研究者として来たと告げれば、最低限の返事しか返してくれず、抑制剤の副作用で体調が悪い時ほど八つ当たりされる。


けれど、それでも良かった。


感情をぶつける先を見つけてくれたことが嬉しかったのだ。


自分一人では完結しない世界を彼女に伝えられたことが誇らしかった。


この先長い人生を、オメガとして生きていく彼女に、誰かに縋る事を最初に教えられたのが自分で、本当に良かったと、思えた。


だから、たぶん、始まりはあの時だ。


使命感が初めて出来た妹への庇護欲に変わったと思いこんでいたけれど、違ったのだ。


あの日胸に生まれた感情は、まぎれもない独占欲。


茜がオメガであってもそうでなくても、その手を誰にも掴ませたくはないと願った気持ちは、一瞬にして研究者と義兄としての庇護欲で覆われて見えなくなった。


そして、茜の一言で、覆われていたヴェールが完全に剝がれ落ちた。


”私に出来ることがあるならなんでも”


真剣な表情で告げられた言葉の意味を自分がどう歪曲して受け止めたのか、茜には口が裂けても言えない。


望めばどこまで許されるだろうとほんの一瞬頭を過った願望に愕然として、自分がそういう目で茜の事を見ていた事実に衝撃を受けた。


そして、マトリの都築のことがどうしてこんなにも気になるのかも、一瞬で理解した。


真尋が逆立ちしたって行けない場所で、あの男が平然と茜の隣に並ぼうとしたからだ。


警戒心ゼロで気安い笑みを浮かべて、都築を案内しようとカフェテリアを出ていく後ろ姿は凛としていて、清々しいくらいだった。


間違いなく自分が茜の一番近くにいて、一番の理解者で、それを超える誰かなんて現れるわけがない。


どれだけ他者が茜を理解しようと手を伸ばしても、研究者の立場でオメガをどこまでも理解していて、茜の性質や性格や体調にまで目を向けてやれる人間は存在しない。


だから、絶対に安全だと思っていたのだ。


二人の間には誰にも入り込めない自信があったから。


けれど、あっさりと茜は自分以外のアルファを見つけてしまった。


あの男がどれくらい茜にとって特別なのかはわからない。


いまは意識していなくても、何かのきっかけで距離が縮まる可能性だって十分考えられる。


最初、茜に手を差し伸べたのは真尋だった。


真尋から距離を詰めて彼女を理解しようと歩み寄って成立した関係性。


今度はその逆のことが起こるかもしれない。


茜から都築に歩み寄って、自分のことを理解して欲しいと願うかもしれない。


心を開いて欲しいと望むかもしれない。


自分が茜にそうしたように。


居ても立っても居られなくなって、有栖川に言われるがままオメガ療養所コクーンに会いに行ったのは、彼女の目に自分がちゃんと映っている事を確かめたかったからだ。


アルファではない自分が、茜の中にきちんと居場所を持っている事を、知りたくなったからだ。


それにしたってあのタイミングで言うべきでは無かった。


結局月曜日まで待てずに、駅前のパン屋に寄って茜をマンションの下まで呼び出した。


20時過ぎて彼女を呼び出すのは初めてで、母親から来た食材を分ける時以外に彼女を呼び出したことは無かったので、わざわざ渡したいものがある、と理由付けをした。


そうしないと会う理由が、二人の間には無かったのだ。


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