第28話 プロスタグランジン

家族と他人の明確な境界線ならすぐにわかるのに。


茜に付けていた”義妹”という肩書きを剥がしてしまえば、残るのは親愛の情や思慕だけで。


自分が義兄という立場を投げ捨てた場合、一気に色んなことが変わってしまうのだと気づいた瞬間、この感情に蓋が出来なくなってしまった。


”あの子の事、どうかよろしくね”


”無茶しないように、無理させないようにしっかり見てやって”


最初は母親の頼み事から始まった義妹ごっこ。


こっちで茜が頼れる身内は自分一人なのだから、面倒を見るのが当然だと思った。


研究者という肩書きを使って彼女の病室に入り浸ったのも、家族の情に訴えるよりもそっちのほうが手っ取り早いだろうと思ったから。


研究者だから、患者を放り出すわけにはいかない。


そう思えたらいくらか気が楽になった。


だって成人してからできた妹なのだ。


正直、兄妹としてどう接してよいかなんて分からない。


向こうも今更な兄妹ごっこは求めていないだろうと思っていた。


オメガの発情期ヒートは仕事上理解していたし、突発的な発情トランスヒートの苦しさもある程度は理解している。


けれど、それで苦しむ人間は身近にはいなかった。


気丈な母親に育てられたので、女性が大泣きするところなんて見たこともなかったし、これまで付き合って来た恋人とはいつだって上手くやって来た。


相手がわき目もふらずに泣きじゃくるような失態を犯したことは一度もない。


この状況が、自分の性質がひたすら憎くて辛い、と目の前でわんわん泣かれて、途方に暮れながらもう泣くなとお決まりの慰めを口にしたら、気休めを言うなと怒鳴られて、枕が飛んできた。


突発的な発情トランスヒートを恐れて強い抑制剤を処方してもらったせいで、副作用がひどくてろくに食事を摂れないままオメガ療養所コクーンにやって来た茜は、やり場のない憤りだけで持ちこたえているような状態だった。


何かが一つでも零れたら、一気にすべてが溢れてしまう限界にいる人間を初めて間近で見た。


自分の無力さを実感したのは多分あの時だ。


もっとなにか出来ることがあるのではないかと、必死になったのもそれから。


思えばすべての原動力は茜で、真尋が何かしたいと思えるのは、それが茜のためになるからなのだ。


地元でいつも娘のことを思っている両親の分も、大事にしてやりたいと思ったし、そうするのが自分の義務だと思っていた。


治験を始めてから過保護になるのも、母親の言葉があったから。


そうやって、理由付けをしてここまで来たのだ。


リクエストしたものとは違っていたらしいクロワッサンを、それでも嬉しそうに頬張る茜の顔を見つめながら、言いようのない安堵が襲って来て、こんなに誰かのために必死になったのは初めてだったなと苦笑いが零れた。


母親からの初めての”お願い”が、こんなにも重たいものになるなんて。


以外と自分は真面目な孝行息子だったらしい、と客観的にそんな感想を思い浮かべたりもした。


あの時からずっと、”茜の幸せのために”という想いが消えない。


それは義兄というフィルターを通して上手くぼやかされてきた。


茜は自分の影響を受けて治験を受けることを決めたのだから、多少過保護になっても彼女を見守る責任がある。


アルファを探さないと言った茜に最後まで付き合うのは自分一人だけ。


途中で誰かがその役割を奪いに来たら、迷わず戦う覚悟があった。


そして、茜が自分以外の誰かを選ぶことはないと、心のどこかでそう思っていたのだ。


これまでの5年が、ずっとそうだったから。


小さなこの町で、居心地のよい自分だけの箱庭を作って生涯を終える。


オメガだからと傷つくことなく、自由に穏やかに。


そんな彼女の傍らで、最後まで面倒を見てやれたらと漠然と思っていた。


奥底にある自分の感情がどんな色をしているかなんて、考えたこともなかった。


けれど、そんな毎日に波紋を呼ぶアルファが現れた。


あの男は、真尋と茜がこの5年で築き上げた日常を何もかも壊してしまうかもしれない。


これを機に、茜は外の世界に、まだ知らないアルファに、興味を抱くかもしれない。


オメガの性質を考えれば、それはどこまでも正しい。


オメガはアルファを求めるようにできている。


だから、運命の番を得られるまでは発情期ヒートを繰り返すのだ。


数多のオメガがそうしているように、アルファ探しに名乗りを上げて、この町から、真尋の元から離れていく日が来るかもしれない。


そんな未来がほんの一瞬過った瞬間、駄目だと心が叫んだ。




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