第2話 B-ロドプシン 

シーツを掴む白い指を上から押さえながら最後まで出し切って、ゆっくりと腰を引く。


さっきまでこみ上げてくる劣情と吐き出したい衝動で埋め尽くされていた思考が、じわじわと正常に動き始める。


定期的なジム通いを欠かさない彼女の身体は、滑らかでしなやかで安心できる。


煮えたぎるような高揚感はすうっと引いて行って、代わりに襲ってくるのは気怠さのみ。


今のところこの方法以外でストレス発散するやり方を知らない。


研究所ラボと自宅の往復の毎日。


その隙間を縫うように恋人との時間を設けて、人生に潤いと彩りを添えている。


そのうち捨てられるのは自分の方なのだろうが、それもいいか、と思えるくらいの淡い関係。


それが、いまの自分にはちょうどよかった。


うつ伏せになっている彼女の肩甲骨の上に唇を寄せて、後始末をしようとベッドの端に腰掛ければ。


「ねぇ、麻生、スマホ光ってるけど?」


暗がりの中で身じろぎした彼女が、眩しそうに顔をしかめながらサイドテーブルの上からスマホを持ち上げた。


ぽいっと投げられたそれが、シーツの上を滑ってくる。


回らない頭で一瞥したそこには、不在着信履歴の山。


時刻は0時を過ぎていて、こんな時間に電話を架けてくる相手に心当たりなんてほとんどない。


唯一呼び出される可能性のある相手は、いま隣で横になっているので。


出張中の教授が酔って電話を架けて来たのだろうかと訝しげに思いながらまじまじと液晶画面を見直せば、母親からメッセージが届いていた。


嫌な予感を覚えてスマホを掴んだ真尋を尻目に、バスローブを羽織った彼女がベッドから降りた。


「先にシャワー浴びるわね」


「ああ・・・」


「なによ、何かあったの?仕事?」


珍しく言葉を濁した男を怪訝そうに振り向いた彼女に向かって首を横に振る。


「・・・・・・・・・いや、母親」


端的に告げた真尋に、彼女が事後特有の気怠い笑みを浮かべた。


「へえー母親には強く出れないんだ」


「ちげぇわ」


可笑しい、と零した彼女がバスルームへと消える。


一人になってから、メッセージ画面を開いて、息が止まった。


あの山のような不在着信は、やっぱり母親からだったのだ。


”全然電話に出てくれないので、メッセージを送ります。


今日、茜ちゃんが発情ヒートを起こしました。


検査の結果、オメガの診断を受けてます。


突然のことで、母さんたちもどうしてよいかわかりません。


暫くの間は、精神的に不安定な状態が続くと言われています。


体調のこと、これからのこと、相談したいので、時間を作って連絡をください。


分かってると思うけど、この事は誰にも言わないで。”


「・・・・・・・・・マジか」


驚きと衝撃が、そのまま声になった。


現在把握されているオメガの数は、全人口の約1割。


真尋が勤めている西園寺メディカルセンターは、オメガバースの黎明期から抑制剤の開発を進めてきた草分け的な存在である。


学生時代お世話になった教授に呼ばれて、メディカルセンターに入ってからずっと発情期ヒート抑制剤の開発研究に携わっている真尋に、真っ先に母親が助けを求めてきたことには納得なのだが。


目の前に突き付けられた現実に理解が追いつかない。


任された仕事である以上、誠意を持って研究開発にあたってきたし、この仕事にやりがいも感じている。


社会的地位の低いオメガを救うことが出来る唯一の手段である抑制剤開発は、研究所ラボの研究者たちの誇りでもあった。


が、そこまで情熱を注げるかと言われればそうでもない。


年収と研究内容に惹かれてオファーを受けてメディカルセンターに入った真尋は、任された役割を全うすることだけ考えて来た。


たった一人の誰かのために心を尽くすだなんて、考えた事が無かった。


女手一つで育ててくれた母親は、自分の人生を楽しんでいるように見えた。


だから、父親がいないことを不満に思ったことは一度もない。


片親であることを絶対引け目にさせないと、多大なる愛情で包み込んで育てられたからだ。


そんな彼女が人生の折り返しを過ぎた頃に、照れくさそうに再婚の報告をしてきた時は心底驚いた。


母親がもう一度寄り添いたいと思える相手を見つけたことが意外だったのだ。


これといった特徴の無い穏やかな壮年の男性は、快活で豪胆な母親の半分ほどしか喋らない控えめな人で、連れ子の一人娘も大人しい印象だった。


数回しか会ったことの無い義妹をぼんやりと思い浮かべながら、彼女がいまいくつで、何をしているのかも知らないことに気づいた。


バース性の検査を受けずにベータとして生きて来た成人女性が、突発的発情トランスヒートに見舞われてトラブルに巻き込まれるケースは少なくない。


最悪の状況でないことだけを祈りつつ、今できることを順番に並べていく。


さっきまでの熱は、嘘みたいに綺麗に消えてなくなっていた。


「ねぇ、麻生ー、来ないの?」


バスルームのドアが開いて、濡れた髪をかき上げながら恋人が呼びかけてくる。


いつものようにバスタブで戯れないのかと尋ねて来た彼女に向かって、迷うことなく答えていた。


「悪い。帰るわ」



そしてこれが契機になった。




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