第3話 キネトコア-1

「気を付けて帰れよ」


「はいはい。じゃあまたね」


おざなりの返事をして足早に遠ざかっていく茜の後ろ姿を見送って、胸元のネックレスを確かめる。


今日も茜は真尋に対していつも通りの態度だった。


だから、効果は持続していると見て問題ない。


どこまでも頼りなかった彼女の背中が、しっかりとした自信に満ちていることを確かめられる場所に居られることを、誇らしく思う。


5年前、オメガ療養所コクーンで再会した彼女は発情期ヒートによるストレスからすっかり痩せ細っていた。


一般的には思春期の頃初めての発情期ヒートを迎えると言われているオメガだが、発情期ヒートには個人差があり、オメガ属性でありながら発情期ヒートを迎えない者もごくまれに存在すると言われている。


そして、成人以降に初めての発情期ヒートを迎えたオメガは、ホルモンバランスを崩すことが非常に多い。


オメガバースに関する教育を受けないまま大人になり、突然の発情期ヒートに襲われてパニック状態に陥るオメガも少なくない。


茜はまさにそのタイプで、街中で初めて発情ヒートを起こして襲われかけたところを保護された。


当時処方された抑制剤が身体に合わず、外に出られなくなり塞ぎ込む彼女を心配した両親がオメガ療養所コクーンへの入院を希望して、茜は真尋の暮らす町にやって来た。


茜の入院連絡を受けた電話で母親から泣きながら、どうにかして茜を助けてやって欲しいと懇願された。


小学校入学前に離婚して以降常に気丈に振る舞っていた母親が泣くのは初めてのことだった。


発情期ヒート以降家族ともろくに口を聞けなくなってしまった茜の心の支えになれなかったことを悔いていた母親からの願いを無下にも出来ず、顔合わせと再婚祝いの食事会以降以来初めて茜の様子を確かめに行った。


完全に義務感からだった。


母親が再婚を決めたと報告して来た時も、親を恋しがるような年齢では無かったし、大学の研究室が楽しくて自宅に戻る事の無かった自分の代わりに、母親を大切にしてくれる人がいるのなら喜んでお願いしたいとさえ思っていた。


幸い大学卒業後は、西園寺メディカルセンターでそのまま研究を続けることが決定していたので、母親のお荷物にはならずに済むし、麻生の名前で一人でやっていける自信もあった。


だから、橘田家とはそれ以上関わる必要は無いと思っていたのだ。


自分ナシのほうが、家族が上手く回ることは目に見えていたので。


今更年齢の近い大学生の兄が出来たと言われても、茜は戸惑うだけだろうし、こちらだって同じことだ。


けれど、遠い親戚の一人位の感覚でいようと心に決めて、すっかり忘れ去っていた義妹の姿を目の当たりにした瞬間、義務感はなぜか使命感に取って代わった。


あの子だけは俺が全力で守ってやらなくてはならない、と馬鹿みたいな使命感に燃えて、研究者の肩書を使ってオメガ療養所コクーンに通うようになり、塞ぎ込んでいた茜に、兄と妹ではなく、研究者とオメガ、という新たな関係性を提示して距離を詰めた。


当時の彼女は、自分がオメガであることによって母親が傷ついた事実に、傷ついていた。


自分の存在が誰を意図せず痛めつける現実を、恐れていた。


当時はまだオメガバースに関する認知度がかなり低く、オメガ属性というだけで偏見の目に晒されることも少なくなかった。


オメガ故に巻き込まれるトラブルもあり、属性を隠して生活するオメガが殆どだったのだ。


自分を生んだわけでもない女性が、オメガの母親として傷つくことを、茜は何よりも恐れていた。


体質に合った抑制剤を見つけて、発情期ヒートをコントロール出来るようになるまでの半年間の療養生活の中で、彼女はオメガ療養所コクーンに新しい居場所を見つけた。


同じ症状で苦しむオメガを側で支えるための知識を自分がちゃんと持っている事を思い出してからの彼女は、はた目にも分かるほど元気になっていった。


あの頃のような、今にも折れてしまいそうな華奢なイメージは、茜にはもうない。


初めて出来た妹が無事に社会復帰を果たしてくれたことにホッとして、母親を泣かせずに済んだことにホッとして、自分にもやれることがあったことにホッとした。


自分がここで働いている意味は、ここにあったような気持ちにすらなった。


橘田茜との再会は、真尋にとってのターニングポイントになった。


自分が誰かを守りたいと思える人間だった事を、思い出させてくれたから。






茜の背中を見送っていた真尋の背中に声が掛かった。


「麻生、そろそろ打ち合わせ。橘田さん、帰ったの?」


別の会議室から顔を出したのは同じくオメガ抑制剤開発チームの有栖川だ。


社歴は真尋のほうが古いのだが、研究所ラボで唯一同い年の研究者ということもあり、仕事帰りに飲みに行く気安い同僚の一人だ。


「んー今さっきな」


振り返った真尋に向かって、有栖川が首を傾げる。


「どうだった?」


「いつも通り」


これといった変化は無し、と頷けば、有栖川がホッとしたように黒縁メガネの奥で目元を和ませた。


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