ブラザー・コンプレックス ~義兄アルファからの溺愛が止まりません~

宇月朋花

第1話 セントロメア

「では、来月のランチメニューについてのミーティングは以上となります。引き続きよろしくお願いします。お疲れ様でした」


進行役を務めていたマネージャーの挨拶の後、参加者たちが次々と席を立って会議室を出ていく。


薄型のノートパソコンを閉じてその流れに合流しようとした橘田茜きったあかねに声を掛けたのは、同僚の管理栄養士、横原だった。


「女性向けメニュー、こっちでもかなり人気みたいで良かったねー」


オメガ療養所コクーンの管理栄養士である茜たちが、施設内で人気の食事メニューを西園寺メディカルセンターのランチメニューに追加することを提案したのは二か月前のミーティングでのこと。


ホルモンバランスを整えるためのメニューを試食ランチとしてメディカルセンターのカフェテリアで提供したところ女性社員に人気になり、来月から正式メニューとしての採用が決定したのだ。


西園寺メディカルセンターの創設者である西園寺緒巳が責任者を務めている全国初のオメガ療養施設コクーンは、突発的な発情ヒートに見舞われたオメガの救済施設であると同時に、抑制剤の副作用に苦しむオメガや、不規則な発情期ヒートに悩まされるオメガの療養施設でもある。


長期的な発情期ヒートのコントロールを目的としたオメガ療養所コクーンは、行き場を無くしたオメガの最後の砦でもあった。


自身もオメガである茜は、24歳の時初めて発情ヒートを起こして、オメガ療養所コクーンに入院することになり、それを機に勤めていた会社を退職して以降、縁あってオメガ療養所コクーンの管理栄養士として働いている。


「どうせなら美味しくて美容にも健康にも良いものを食べたいって気持ちは、全女性共通だもんね」


国内初の抑制剤開発に成功した西園寺メディカルセンターを有する地方都市は、他県よりもずっとオメガに対する偏見が少ない。


福利厚生を整え、発情期ヒートを抱えるオメガを積極的に採用してくれる企業は少ない中で、オメガ療養所コクーンに巡り合えたことは幸運だった。


だから、自分と同じようなオメガの為に自分に出来ることで力を尽くしたいと思っている。


「そうそう。オメガもベータも関係ない」


「・・・・・・うん」


初めて発情期ヒートを迎えた時は、自分の身体の変化が受け入れられずパニック状態に陥って、しばらくは外を出歩けなかった。


いま、こうしてベータの同僚たちと同じように働けているのは、オメガ療養所コクーンで出会った医師や、スタッフのおかげだ。


「次の検診いつなの?」


「スケジュール来てたんだけど、まだ見れてなくて。体調いい日は在宅にしようと思ってるから、難しい部分はフォローお願いできる?」


「勿論よ。体調優先で、無理しないでね。うちの妹も抑制剤飲んだ後は部屋で倒れてるもの」


「抑制剤は、馴染むまでが辛いからね」


妹がオメガで、茜と同じようにオメガ療養所コクーンでの療養経験を持つ同僚は、オメガへの理解が深いので、発情期ヒートの休暇中のフォローもお願いしやすいから助かる。


オメガ療養所コクーンに入院したオメガは、いくつかの検査の上で希望があれば抑制剤の治験に参加することが出来る。


現在開発中の、即効性の抑制剤、並びに、長期的な発情期ヒートをコントロールするための抑制剤の治験に参加登録している茜は、仕事以外でも定期的に西園寺メディカルセンターを訪れていた。


「早く特効薬開発されるといいのにねぇ。ああ、でもその前に運命の番を見つける方が先決か」


「そこは期待してないよ。私、アルファ苦手だし」


オメガは運命の番であるアルファを見つけて項を噛まれることで、フェロモンの発生を抑えられるとされている。


一般的には番となったオメガは発情期ヒートも緩やかになり、ベータと同じような生活を送れる、とされていることから、一部の若いオメガの間では憧れのシンデレラストーリーとされていた。


教育機関で第二性別、いわゆるバース性の検査とオメガバースに対する教育が義務化されるようになってから数年、若年層にオメガバースの存在が浸透していくにつれて、運命の番というキーワードが度々話題に上がるようになった。


が、検査義務がなかった頃に青春時代をとうに済ませてしまった社会人オメガにとっては、どこまでも夢物語にすぎない。


「でも、苦手じゃないアルファに出会ったらどうするの?」


「出会ったことがないから分かんないわよ」


最初の突発的発情トランスヒートが街中だったせいで、アルファに襲われかけた経験を持つ茜にとってアルファは忌避すべき存在だ。


アルファの持つフェロモンに過剰反応する体質の持ち主である茜が、自分から番探しの旅に出られるわけがない。


むしろ進んでアルファを遠ざけるくらいなのに。


そのため、自分がオメガであることが分かってからは、一度も誰とも恋愛していない。


30歳という年齢をすぎて、さらに恋愛も結婚も、自分の人生から遠くなった。


「そっかー・・・・・・発情期ヒートで苦しんでるの知ってるのに無責任だとは思うんだけど、ベータとしては、やっぱりちょっと憧れるのよねー・・・運命の番って」


「それよりも治験に参加して、一日でも早く効果の高い抑制剤を作って貰うことのほうがよっぽど現実的だから」


抑制剤なしの生活が考えられない今は、自分の面倒を見るので精一杯だ。


恋愛は、ドラマや物語の中で十分である。


どんなに憧れても、普通のベータ同士のような恋は叶わないのだから、見るだけで満足している方が精神衛生的にもずっと良い。


冷静に言い返した茜の視線の先に見知った白衣の男の姿が映って、少しだけ歩調が遅くなった。


茜の険しい表情には気づきもせずに、同僚がポンと肩を叩いて早足になる。


「まあ、そうよねぇ・・・・・・・・・あ、来たわよ、ほら、いつものお迎えー。私、先にオメガ療養所コクーン戻ってるから、ごゆっくり!」


彼女が余計な気を利かせるのは今に始まった事ではない。


西園寺メディカルセンターでのミーティングに一緒に参加した際に、廊下でばったり彼に鉢合わせした時からずっとそうなのだ。


ただの“友人”だと、何度も話しているのに。


「よぉ妹、元気か?」


柔和な面差しに、からかうような笑みを浮かべた男の声に、茜は盛大に顔を顰めた。


「私はあんたの妹じゃありません!」


噛みつくように精一杯小声で言い返して、吐き捨てるように付け加える。


「毎回毎回なんでいるの!?さっさと研究所ラボに帰りなさいよ研究者。検診日はまだ先で今日は予約も入れてません」


茜が西園寺メディカルセンターに足を運ぶたびこうして毎回待ち伏せをして来る長身の男、麻生真尋あそうまひろは、傷ついたように胸を押さえて大げさにしょげて見せた。


「おっまえは・・・ほんとにつれないなぁ・・・母さんに頼まれて顔を見に来てやってるのに」


彼の声や態度に騙されてはいけない。


これは茜を懐柔するための彼の標準装備デフォルトなのだ。


「お母さんにはメッセージも送ってるし!」


慣れないなりに最低限の親子のコミュニケーションは取っているはずだ。


「顔が見たいって言ったのに何度言ってもテレビ電話してくれないって嘆いてたけど。なんかあった?」


それはちょっとハードルが高いのではないだろうか?


生まれた時からべったり母と娘をやって来た間柄ならともかく、茜と義母の母娘関係は、成立してからまだ10年も経っていない。


一緒に暮らしていた年数を考えると、極々僅かだ。


「無いわよ別に。三十路の娘の顔なんて見たくないでしょうよ。本当の親子でもないんだし・・・・・・・・・テレビ電話苦手なの・・・・・・・・・部屋散らかってるし、色々心配されるのが嫌なのよ」


初めて出来た娘を全力で可愛がってくれた母親には心から感謝しているし、恩義も感じている。


けれど、なにも考えずに甘えられるかと言われれば、やっぱり答えは否。


完全に打ち解けることなんて出来ないから、そうできない自分を知られたくなくて、いつも自分から距離を置いてしまう。


「お前がそうやって遠慮しいしい娘やってるから、俺んとこに話が飛んでくるんだよ。これでもまあ、一応一番身近にいる身内だし?」


「戸籍も血縁もまったく関係ないけどね!?」


「まあ・・・そうだけどな。一番の身内は身内だろ。だから顔くらい見に来るよ」


「それでなによ、お母さんに、茜は元気でしたって報告でもするわけ?」


「そうだよ・・・・・・いちいち噛み付くなよ。お、いまの抑制剤、合ってるみたいだな」


急に研究者の顔になった真尋がひょいと屈んで視線を合わせてくる。


逸らした視線を追いかけるように顎先を掴まれた。


真尋がアルファの研究者だったならば、迷わず平手打ちをお見舞いしていたところである。


「・・・なに?」


「充血、収まってる」


「ああ・・・うん・・・・・・まぶたが重たい感じもなくなった・・・って、だから、検診まだ先なんですけど・・・」


「ついでだよ、ついで。良かったな。いつまでもウサギの目じゃテレビ電話出られないもんな」


泣き腫らしたように赤い目のまま義母の電話に出れば、何かあったのかと過剰に心配されることは目に見えていた。


新しい家族の形ができて、一人娘も無事就職して落ち着いたと思った矢先、橘田家を襲った茜のオメガ発覚という悲劇は、義母の過保護にさらに拍車をかける結果になった。


『ずっと女の子が欲しいと思ってたのよー。こんな可愛い子が娘になるなんて嬉しいわ』


心底幸せそうにそう言って微笑んだ彼女は、茜がオメガだと分かったその夜、一晩中泣き続けたそうだ。


自分になにかあると、自分以上に傷つく誰かが居てくれる事実は嬉しくて、同時に途轍もなく重たかった。


「・・・・・・・・・余計なお世話っ」


真尋の母親は、茜の父親との入籍を機に橘田姓になったので、名実ともに橘田家の一員であることに変わりないが、真尋は違う。


当時すでに大学生だった彼は、就職が決まっていたこともあって当然のように麻生のままでいることを選んで、母親もそれを了承した。


だから、茜とは完全に赤の他人である。


母さんをよろしくお願いします、と言って頭を下げた青年との縁は、それっきりになる予定だった。


もうこの先の人生で関わりを持たない相手になるはずだったのだ。


結婚前の家族での顔合わせ以降一度も橘田家を訪問したことも、家族団欒に参加したこともなかった彼が、こんな風に茜と兄妹ごっこを繰り広げてくるようになったのは、茜がオメガであることが発覚して、オメガ療養所コクーンに入院してからだ。


オメガ抑制剤開発チームに所属する研究者の一員である真尋との再会は、本当に予期せぬもので、ある意味最悪の再会でもあった。


お互い顔合わせの時一度きりしか会っておらず、ろくに記憶にも残っていなかった便宜上の義兄と、オメガと研究者という立場で再び顔を合わせる羽目になるなんて。


あの日を境に、茜の生きている世界は一変してしまった。


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