第9話 B-サイトカイン-1

「なぁ、先週届いた発情ヒート研究の論文どこ行った?」


基本的に研究所ラボの中は雑多としているが、論文の保管場所だけは決められている。


決めておかなくては全員が困るからだ。


現在国内で一番オメガバースに関する情報が集まる場所である西園寺メディカルセンターには、様々な問い合わせが寄せられる。


テレビ局や出版社からの取材協力依頼も後を絶たない。


まずは広報部ですべての問い合わせを受け付けして、マニュアル回答出来なかったものについては書面での回答を行うようになっており、それらの対応はすべて研究所ラボに回ってくる。


オメガバースに関する基礎知識しか持たない広報部員では、太刀打ちできないような問い合わせがほとんどだからだ。


キャビネットを見ても目的の論文が見当たらずに首をかしげていると。


「姫が持ってったんじゃない?」


有栖川が自分の分のコーヒーを淹れながら視線を検査室へ向けた。


「ったくあいつはまた本の虫になってんのかー・・・読むなら古いやつからにしろって言ってんのに」


「古いのは読み終わったんでしょ」


「・・・マジかよ」


「たぶんね」


研究所ラボ唯一の女性研究員であり、オメガでもある西園寺雫は、オメガ研究への熱意が凄まじい。


学生時代から研究所ラボに仮所属して、抑制剤の治験に関わって来た彼女の、抑制剤開発への情熱は大いに買うが朝から晩まで論文付けになっている年頃の女子を見ると、嘆かわしい気分になって来るのだ。


枕もとに置いて眠るのは、オメガ研究で有名な海外の教授のサイン入りの本だというから恐ろしい。


彼女は論文を取り込むと納得しきるまで手放そうとしないので、先に目を通しておきたかったのに。


「最近付き合い良くなったし、勧められた論文以外も片っ端から読むようになったし・・・人って変わるもんだなぁ」


「嫌味かよ」


抑制剤開発に必要な知識はもちろん頭に入れておくべきで、それは研究者としての義務だ。


けれど、それ以上に自ら進んでオメガバースを深堀りしようとしてこなかった。


必要性を感じなかったのだ。


それが、ここ最近はずっと空き時間には論文を読み漁っているのだから、同僚としてはからかわずにはいられないのだろう。


茜が居た頃は、研究所ラボの飲み会すら断っていたので、この辺りはもうなんとも言えない。


「橘田さん元気なの?」


「んー・・・たぶんな」


「たぶんって、なに、連絡取ってないの?」


「もともと取ってねぇよ。連絡先もこっち来て初めて知ったくらいだし。それも退院日に」


それまで毎日顔を合わせていたので、スマホを活用することが無かったのだ。


茜に何かあればすぐにオメガ療養所コクーンから真尋に連絡が入っていたので。


「今どきの兄妹ってそうなの?うちなんて、週に一度はメッセージ来るけどなぁ・・・返信しないと電話架かって来るし・・・これって一般的じゃないのかな」


「知るか。俺に訊くな」


「気になるなら連絡してあげればいいのに」


「なんかあったら連絡してくるだろ・・・たぶん」


自分の手元を離れた以上、体調についてあれこれ尋ねるのは憚られた。


発情期ヒートの周期をおおよそ把握している事自体、物凄くイレギュラーなのだ。


抑制剤さえきちんと飲んでいれば発情期ヒートを起こす心配はない。


オメガ属性を受け入れてからの茜は、パニック障害を起こすこともなくなっていた。


患者によっては発情期ヒートの症状が重くて抑制剤が効きにくいこともあるが、幸い茜はそうではなかった。


オメガの症状としては軽いほうなので、きちんと体調管理さえすれば日常生活を続けることが出来る。


アルファに対する苦手意識は未だに根強く残っているが、警戒心が強いくらいのほうが家族としては安心だ。


茜の事をちゃんと見守ってくれる両親がいるのだから、これ以上自分が出しゃばる必要はない。


そう思ったから、自分から茜に連絡することは控えていた。


あの兄妹ごっこは、オメガ療養所コクーンという舞台があったからこそ成り立っていたものなのだ。


いい年した大人がいまさら兄妹ごっこなんて、馬鹿げている。


「連絡が来ないから寂しいんだ?」


「は?なんで?」


「いま麻生が必死に論文読み漁って勉強続けてるのって、抑制剤開発のためだろ?」


「仕事だからな」


「その仕事は、橘田さんの役に立つもんね」


今更正義感と使命感に目覚めた、だなんて情けなくて言えるはずもない。


が、オメガ属性に苦しむ人間を間近に見て来た経験は、少なからず仕事に対する姿勢を改めさせられた。


手を振って彼女を見送ってからずっと、あの子のために何か、という気持ちが止まない。


「・・・・・・オメガのためになるんだよ」


総じていえばそういうことだ。


開き直った真尋に、ひょいと肩をすくめた有栖川が、自分の机の上から資料の束を寄越してくる。


「これ、読んでみて。即効性抑制剤のアプローチに関する報告。結構面白いよ」


「・・・・・・ああ」


頷いて手渡された資料に視線を落としたら、机の上でスマホが震えた。


液晶画面に表示された名前に目を丸くする。


勢いよく立ち上がった真尋を有栖川が二度見した。

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