第49話 ヌクレオチド-1

「こんな小さいお店、よく見つけたねー。真尋くんパン好きだったっけ?」


くまの顔の形をしたクリームパンをトレーに乗せながら、茜が不思議そうな顔でこちらを振り向いた。


真尋はパン好きではない。


もっと言えばこれといって食べることに興味がない。


しいて言うならば論文を読んだりオンラインゲームの傍ら片手で手軽に食べられるものは何でも好きだ。


おにぎり然り、菓子パン然り。


一時期は限定のカップ麺にハマって有栖川と二人で箱買いしたりしていたが、派手にキーボードの上にぶちまけてからは、パソコン周りでの汁物は禁止にしている。


茜に会いに行く口実に駅前のパン屋で彼女の好物のクロワッサンを買ってから、パンのお土産を強請られる事が増えた。


これまでも、茜の体調が気になる時にはパティスリーの洋菓子を大量に買い込んで差し入れを届けに来たという口実でオメガ療養所コクーンを訪れることはよくあったが、彼女から強請られたことは一度もなかった。


この先も自分の担当は真尋にお願いしたい、と言われたあの日から、茜の表情がさらに柔らかくなった。


最近では”明日の朝ご飯、パン食べたいんだけど”というメッセージが来るたびいそいそと新しく見つけたパン屋に足を運んでいる。


同じ店のパンばかりでは飽きるだろうと、興味の無かった情報誌をチェックしては人気店やニューオープンのお店を探しまくっているのだ。


真尋が買ったパンを茜に届けることを数回繰り返して、いっそのことお店に連れて行ってやったほうが喜ぶのでは、と提案してみれば、案の定茜は大喜びした。


実家暮らしだった頃は自分で運転して出掛けることもあったようだが、オメガだと分かってからは突発的な発情トランスヒートを恐れて徒歩移動を選ぶようになった茜の行動範囲は極端に狭い。


真尋と買い物に出かける以外は、同じオメガの友人である紗子と近くのカフェに出掛けたり、図書館に行く程度だ。


オメガの性質を考えれば、人混みを避けたくなる気持ちは十分理解できたし、危険を遠ざけるためにもそうして欲しい気持ちもあって、すすんで茜を外に連れ出すことをしてこなかった。


が、そういう自分の思考がそもそも茜の未来を狭めていたのだと気づいた。


茜の世界を狭めることなく、明るい未来を覆うことなく、このままの関係で側に居るのは楽なことでは無かったけれど、一つずつ階段を上がっていく彼女の手を取って導いてやれるのは、やっぱり嬉しい。


時折顔を覗かせてくるアルファの自分を上手く宥めて押し留めることが出来れば、この先も二人の関係は揺るがない。


誰かが間に割り込んでこない限りは。


「この店は姫に教えて貰った。なんか有名店のパン職人が独立して作った店らしいよ」


「・・・・・・西園寺さんに・・・ふーん」


研究所ラボ唯一の女性研究員である西園寺雫は、オタク気質の人間が集まった研究所ラボに新しい風を吹かせてくれた。


彼女のおかげで話題のスイーツにも詳しくなって、娘にも一目置かれるようになったと室長が嬉しそうに話すくらい、雫は流行に敏感だ。


10代の青春の大半を発情期ヒートで苦しんで過ごした彼女にとっては、抑制剤が出来た今が青春時代なのかもしれない。


旺盛な好奇心で、自ら進んでオメガの研究に取り組む姿勢は先輩研究者としては誇らしいが、彼女の為にメディカルセンターを設立した西園寺としては、未だに番のアルファを得られていない彼女への不安は尽きないようで、研究所ラボ以外の場所へは出したがらない。


だから、雫の知識が流行の食べ物や化粧品に限定されているのは、大勢の人と関わらずに楽しむことが出来るからだ。


本人は研究があれば生きていけると本気で思っているようだが、雫にも早く良い出会いが見つかればよいのにと思ってしまうのは、入社前から彼女を見て来た兄心故。


西園寺が既婚者で無ければ間違いなく雫を配偶者に選んだだろうに、運命とは因果なものだ。


「若い女の子って菓子パン好きだよな。お前も入院してるとき急にチョコクロワッサンが食べたいって言いだしたことあっただろ?食欲も落ちてるときだったから、食べたいもんがあるならって買いに走ったら、生地に織り込んであるやつじゃなくて、チョコが巻いてあるやつがいいって言われてさ」


「・・・それでも美味しく頂きましたよ」


「あれ以来俺はクロワッサン選びにはかなり慎重になった」


「知ってる。だから真尋くんが買ってくれるクロワッサンはどれも美味しいもん・・・・・・・・・」


ミニクロワッサンを何個かトレーに乗せながら茜が真尋くんも食べるよね?と尋ねてくる。


パン屋探しとクロワッサン選びにどれだけ必死になっていると思っているのか。


それもこれも、茜を喜ばせるためだ。


急にデスクの上に増えた情報誌に雫は呆れた顔になって、有栖川は大笑いした。


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