魔術師

 …………魔術師?


 心の中で反芻する。それは小説や漫画、御伽噺の中。空想上の存在だ。

 俺も夢想した事はある。もしも空を飛べたら、もしも魔法を使えたら。どんなに楽しいことか。

 だがやはりあくまでも空想なのだ。決して現実になんてなりはしない。

 

 だからまさかそう名乗る人間がいるとは、露ほどにも思っていなかった。

 

 しかし現実離れした今の状況がヒューの言葉をどうしても否定できない。

 

 なにせ大人の頭が弾け飛び、子供が細切れになったのだから。とても現実とは思えない。


「私は名乗りましたよ?」


 ヒューはにっこりと笑顔を浮かべて言った。俺は震える喉を必死に動かし言葉を紡ぐ。

 

「……と……刀至。岩戸刀至……です」

「トウジ君ですか。いいでしょう。君には神の器になっていただきます」


 ヒューがパチンと指を鳴らし、訳のわからない言葉を口にした。

 

 魔術だの神の器だの、立て続けに理解を超えた情報が押し寄せてくる。

 気を抜けば思考を停止しかねない。しかしそれをしてしまったら待っているのは死だ。


「……言ってしまえば、君は選ばれたのです。なにせ神になれるのですから」


 ヒューは大袈裟に両手を広げていやらしく笑った。まるで最悪な舞台役者を見ている気分だ。

 

 その笑みを見て神の器とやらは碌でもない物だという事を俺は確信した。


 ……逃げなきゃ。


 周囲に視線を走らせる。扉はふたつ。しかしそこを通るのは自殺行為だ。

 

 ……細切れにはなりたくない。

 

 他の出口は窓だけ。だがこの部屋は三階にある。

 窓を突き破ったとしても――。


「いいですねぇ。どうすれば生き残れるのか、どうすれば逃げられるのか。考えていますねぇ。生命は危機に陥った時にこそ輝く。よく考えてください?」


 ヒューは余裕の笑みを持って告げた。近くにあった椅子に腰掛け、腕まで組む始末。

 

 それは映画や劇を観覧するような態度だった。


 完全に舐められている。だが好都合。ヒューは完全に油断している。ならば今は思考を動かす方を優先しなければならない。

 

 この気紛れもいつまで続くのかわからないのだから。

 

 状況は絶体絶命。控えめに言って最悪な状況だ。窓を破っても良くて骨折だろう。走れる状況ではなくなる。子供たちを連れてとなると尚更だ。


 俺は横目で怯えている『家族』を見た。

 それが行けなかった。


「ふむ。君はすごいですねぇ。この状況で自分だけではなく皆を助けようとしている。ですがそれは不可能です。……と言っても君は諦めないのでしょうね」


 ヒューが呆れたように肩をすくめる。思考を読んでいるかのような言い草だった。

 

 そしてヒューが右手を上げる。何をしようとしているかは明白だった。


「やめ――」


 ――パンパンパン。


 子供達が破裂した。

 死んだ。死んだ。死んだ。

 助けられなかった。


「さてお荷物は消えました。どう動きますか?」

「ああああああああああああああ!!!」


 慟哭が部屋中に響く。憎悪が胸の裡に湧き上がる。


 ……許さない。絶対に許さない。


 なりふりかまわずヒューの元へと走った。殺さないと気が済まない。こいつは生きてちゃいけない存在だ。

 

 しかし、ヒューはハァとわざとらしいため息をつき「残念です」と落胆したように肩を落とす。

 

 それがまた腹立たしい。

 

 拳を握り振りかぶる。イラつく顔面を撃ち抜くために。

 だが、あと一歩のところで横合いから影が飛び出して来て衝突した。

 

 飛び散った血に塗れながらゴロゴロと転がり壁に激突した。


「刀至! しっかりしろ! それじゃダメだ!」


 気付けば血塗れの和樹が馬乗りになっていた。

 

 自分を止めたのが和樹だと分かった時、胸の奥に安堵が広がった。子供達は死んでしまったが和樹は生きていた。

 

 部屋中血だらけで気付かなかった。

 しかし同時に怒りも湧いてきて衝動のままに吼えた。


「なんでだ! あいつはみんなを殺したんだぞ!」

「わかってる! でもダメだ! 俺たちはあいつには勝てない! わかってるだろ! 無駄に殺されるだけだ!」


 和樹は拳を握りしめて涙を流していた。血に染まった赤い涙が俺の頬を濡らす。


 その姿にハッと我に返った。


「君、いいですねぇ。才能は全くですが、頭がよく回る。さてどう動きますか?」


 ヒューが足を組みながら言った。とても愉快だと言わんばかりの表情で。


「刀至。考えがある」


 和樹が耳元に口を寄せヒューには聞こえないように小声で話す。


「窓から逃げろ」


 その言い方はまるで一人で逃げろとでも言うかのように聞こえた。


「だめだ! 逃げるなら和樹も一緒に――!」

「わかってる! 俺も死ぬつもりはない。でもそれじゃダメだ!」

「じゃあどうしろと!」

「いいか刀至。視線を向けるなよ? 奥から二番目の窓だ。あそこから飛び降りれば下は花壇だ。クッションになって……おそらく助かる」


 よくそこまで見ているなと俺は目を見張った。

 飛び降りる案には賛成だ。しかしそれにはまだ問題がある。


「あいつが妨害しないとも限らないぞ」


 今は椅子に座って寛いでいるが、行動を起こした時に何もしないとは限らないのだ。


「わかってる。だから俺は一緒に行けない。でも俺もちゃんと考えてる。ここで死にたくはないからな」

「……それは?」

「言えない。小声でも聞かれている可能性がある」

「…………わかった。でも本当に考えがあるんだよな?」

「大丈夫だ。俺が嘘ついたことあったか?」


 ない。和樹が嘘をついた事は一度もない。

 彼は真面目な男だ。曲がったことは嫌いで、いつも正しいと思うことしかしない。

 

 そのせいで上級生と喧嘩になることもしばしばあったが、一度もその信条を曲げた事はなかった。

 

 だからこそ和樹を本当の家族だと思っている。

 

 たとえ血は繋がっていなくとも心は繋がっている。


「死ぬ気じゃないよな?」

「当たり前だろ。家族を残して逝けるかよ。……合図したら振り返らずに走れ」


 和樹が上から退く。そして二人はヒューと対峙した。


「相談は終わ――」

「行け!」


 ヒューの言葉が終わる前に和樹は合図を出した。打ち合わせ通り一気に駆け抜けた。

 

 和樹が何をするのかはわからない。

 

 今はただひたすらに和樹の作戦が成功するようにと祈って窓までの道を全力で駆けた。


「「うおおおおおおおおお!!!」」


 その雄叫びは自分が発したものか和樹が発したものか。

 そして両手を交差させ、指定された窓へ飛び込んだ。


 ――ゴツン。


 何か硬いものに当たって弾かれた。俺は無様に地面を転がった。

 何が起きたのか全く理解できなかった。


 ……勢いが足りなかった?


 そんなはずはない。あれだけ走ったのだ。勢いが足りないことなんて事はまずあり得ない。

 

 そもそも感触がおかしい。とても窓に当たった感触とは思えなかった。それこそ大樹にでも激突した感触だった。


「ぐっ」


 くぐもった声が聞こえ、混乱していた思考が引き戻される。

 弾かれたように起き上がり、声の方を見た。

 

 ヒューが和樹の首を掴み持ち上げていた。

 

 長身のヒューがそうすることによって和樹は宙吊りになり、苦しそうにジタバタともがいている。


「和樹!」

「に……げ…………ろ!」

「くくく。良い見世物でした。まさか勝てないと言っておきながら私に向かってくるとは。自己犠牲。いいものですねぇ。……さてそれでは答え合わせをしましょうか。」


 ヒューは今までで一番清々しい笑みを浮かべた。

 全ての目論見がうまく行った子供のような無邪気な笑みを。


「……魔術には結界というものがあってですね。この部屋は外界と隔絶しています。ですから脱出は初めから不可能です」


 ――ボキッ。


 それは自分の心が折れた音か、和樹の首がへし折れた音か。

 

 この男はもとより逃すつもりなど無かったのだ。

 

 逃げようとした子供をわざわざ殺して見せたのはもしかしたら逃げられるのではないかという希望を捨てさせない為。

 

 本当に結界なんてものがあるならわざわざ殺す必要などない。

 

 遊んでいたのだ。逃げられるかもしれないという希望を見せて。

 

 全てヒューの掌の上だったのだ。

 

 ボトリと和樹の体が地面に転がる。


「あぁ――」


 幽鬼のような足取りで和樹の元へ歩く。ピクリとも動かなくなってしまった家族の元へ。


「かず……き? うそだろ! おい。……起きろよ。起きてくれよ!!!」


 声を掛けても反応はない。当然だ。首があり得ない方向へ曲がっている。瞳孔が開き唾液が口から垂れている。生きているはずがない。

 

 その事実が冷たい水となって心の奥底へと浸透していく。

 

 死んでしまった。

 

 みんな死んでしまった。

 

 ついさっきまで元気にテレビを見ていたのに。

 

 来年はもっといい年になるようにとか。来年の夏休みはどこへいこうとか気の早いことを話したり。

 

 ありふれた日常が嘘だったかのように感じる。ガラガラと足元が崩れていくような感覚がした。


「君にはふたつ選択肢を与えます」


 ヒューがにやにやとした笑みを顔面に貼り付け、指を一本立てた。

 

 しかしもはやどうでもよかった。


「ひとつ、大人しく私に着いてくる」


 そして男は二本目の指を立てた。


「ふたつ、首を切断し体は置いていく。そうすれば軽くなります。正直頭さえあればいいんですよね」


 選択肢などないも等しかった。絶望で心が折れていても生きていたいという生存本能には抗えなかった。

 

 俺は半ば自動的に震える足で立ち上がった。その様子を見たヒューの口が弧を描いた。


「良い仕上がりです。では行きましょう」

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