修行
外に出たら視界いっぱいに飛び込んできた光景に息を呑んだ。聳え立つは日本一の霊峰、富士。今もなお活動を続ける活火山である。
「……きれいだ」
写真の中で見たことがあるし、暮らしていた施設からも見ることは出来た。
しかし目の前に飛び込んできた光景はそんな物とは比較にならないほど壮麗だった。まさに圧巻。大自然の雄大さをまざまざと見せつけられた気がした。
「オレもこの景色は気に入っているんだ。まああの中は魔境だけどな」
「魔境?」
師匠の言葉に俺は首を傾げた。
こんなに綺麗な光景と魔境という正反対の言葉がうまく結び付かなかったのだ。
「魔術師の中では怪異や妖怪、海外だとゴーストとかの類を総称して魔物と呼ぶ。魔物は魔境って言う龍脈から溢れ出した瘴気が作り出す土地から発生するんだ。霊峰富士もその中の一つでな。それこそ世界有数の魔境なんだよ」
「でも普通に登れますよね?」
施設にいた頃、テレビで富士に人が登っているのを見た。
それこそ何百、何千という数の人間が毎日、日本一の山に挑戦していることも知っている。
登山は危険が付きまとうと言うけれど、師匠が今話したような危険があるなんて聞いたこともなかった。
「それは表側の話だな。霊峰富士には登山路があってそこを結界で囲んでる。その中にいればまず間違いなく安全だ。だが少しでも外に出ると魔物に襲われる。一般人……いや並の魔術師、いや一流の魔術師でも数分と持たずに死ぬ」
「そんな恐ろしい場所だったんですね」
「魔術師なら誰でも忌避する場所ではあるな。登山している一般人を正気の沙汰じゃないとか言ってるヤツもいるぐらいだ」
あまりの言い草に俺は苦笑を浮かべた。知らぬが仏とはまさにこの事なのだろう。
「それにしても富士山って事はここは静岡ですか?」
先程の茶を飲んだ時、この辺は茶の名産地だと師匠は語った。
ならば山梨よりは静岡の可能性の方が高いと考えた。
「ああ。と言ってもほぼ中間なんだけどな」
「あの廃教会もここら辺なんですか?」
「ちょうど逆だな。だけど魔境だから地図通りの距離じゃないぞ」
「どういうことですか?」
「魔境っていうのは瘴気の影響で空間が歪んでるんだ。富士山ほどじゃないが樹海も魔境だからな、一般の地図は役に立たない」
「もしかして樹海でコンパスが狂うっていうのも?」
「その通りだ。色々言われているが実際は瘴気の影響だな。浅い場所なら大丈夫だが、深くに潜ると瘴気が濃くなる。それが原因だ」
なぜ富士樹海ではコンパスが狂うのか。
以前テレビで前に噴火したときの溶岩が磁場を狂わせているからと考えている学者がいたが真相は違ったらしい。
気にはなっていた事だが知れた喜びと聞いてはいけない事を聞いた気がして複雑な気分だ。
「さて……ここで初めの目標を伝えておくか。いいか? 一年だ。一年であの中でも生きられるようになれ」
そう言って師匠は樹海ではなく富士山を指差した。
日本有数の魔境。一流の魔術師でも忌避するような場所で生きられるようになれと師匠は言っている。
即ち、たったの一年で一流を超えろと言っているのと同義だ。
……俺にできるのだろうか
なにせ魔術のなんたるかも知らないような素人だ。
しかしやるしかない。超越者というバケモノの一角を殺さなくてはならないのだ。こんなところで躓いてなんていられない。
ならば俺が言うべき事はたった一つ。
「はい!」
「いい返事だ。なら早速始めるか。ほら」
師匠は一振りの刀を手渡してきた。
「オレを真似て構えてみろ」
師匠は正眼に刀を構えた。
構えたのは漆黒の大太刀。陽の光すら反射せずに呑み込む程の漆黒。まるでそこだけ世界から切り取られたかのような感覚に陥る。
俺も師匠に倣い刀を鞘から引き抜いた。
……え?
するとそこにはギラギラと輝く刃があった。素人でも刃引きがされていないとわかる。
まごう事なき人を殺すためだけに存在する道具だ。
「あの、これ……刃が」
「真剣でやらないと意味がないだろう。それにオレを斬れると思っているのか?」
師匠が表情を引き締めた。
心なしか纏う雰囲気が刺々しいものになった気がした。
だがその通りだ。師匠と俺にはそれだけの力量差がある。
「いいか刀至。ここから先は命のやりとりだ。オレは殺す気でやる。だからお前もオレを殺す気で抗え。でないと――」
――死ぬぞ
ぶわっと師匠から濃密な殺気が迸った。それは物理的な重圧を伴って俺を縛り付ける。気温が何度も下がったかのような錯覚を覚えた。
全身が竦み、ガタガタと震える。
今少しでも動けば死ぬ。直感でそう理解した。
瞬間、師匠の姿が掻き消えた。
「……ッ!」
横から音がした。分かったのはそれだけだった。
次の瞬間には頭に強烈な鈍痛が走り、意識は暗転した。
目が覚めたら視界いっぱいに青空が広がっていた。雲一つない快晴。空気もおいしい。
……いい天気だな。
うまく働かない頭でぼんやりと思った。
そのまま数秒間空を眺めていると側頭部に鈍い痛みが走り顔を顰めた。
「――!」
俺は音が付く勢いで身体を起こした。
勢いのせいで再び鈍い頭痛に襲われて思い切り顔を顰める。
しかしそのおかげで思い出せた。
起き上がってすぐに周囲に視線を走らせると軒下で師匠がお茶を飲んでいるのを見つけた。
「すみません。俺……」
「いやいい」
言い募った俺を師匠が手で制した。
「実戦だったら死んでいた。わかるな?」
そう言いながら湯呑みを置き、傍の大太刀を持って立ち上がる。
「……ッ! ……はい」
ギリギリと歯噛みした。
師匠の言う通りだ。いきなりだったとか、まだ構えていなかったとか言い訳が頭に浮かんだが、そんなもの実戦ではなんにもならない。
敵に待ってくれとでも言うつもりか。
――悔しい。
覚悟を決めたと言うのにこの体たらく。
実力差があるのは初めから分かっていた。しかし自分は殺気に気圧されていただけで何もしていない。
「…………もう一度お願いします」
「良い顔つきになってきたな。続けるぞ」
師匠は満足げに頷いた。
そこには先程までの真剣を手にして狼狽えていた姿は跡形もない。
師匠はニヤリと笑うと再び大太刀を構えた。
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