神降ろし
気が付いたら森の中にいた。
どうやってここまで来たのかはよく覚えていない。ただひたすらにヒューの後について歩いた。
足が痛くても、歩けないとは言えなかった。
逃げようだなんて思えなかった。
そんなことをすれば間違いなく命はない。
「着きました。ここが祭壇です」
東の空が白み始めた頃、ヒューが足を止めて前方を指さした。つられてそちらを見ると、教会があった。
古びた教会だ。人の気配はなく、蔦が建物を覆っている。屋根は所々崩れていて、尖塔に付いている十字架でさえも折れ曲がっていた。
忘れ去られた教会。
そんな言葉が似合う廃墟だ。
いつ倒壊してもおかしくないような教会へとヒューは迷いなく進んでいく。遅れたら何をされるかわかったものではないので俺は黙ってついていく。
どうやらこの教会は十字形で構築された建築らしい。
外から見た印象とは違い内部はそこまで崩れていなかった。
しかし廃墟である事には変わりなく長椅子には埃が積もっている。その長椅子も綺麗な状態で残されているものは少なく、歪んでいるもの、壊れているものもあった。
中心にある十字架もやはり歪んでいるし、崩れた天井からは朝日が差し込んでいる。
ここまでは普通の廃教会だ。どこにでもはないだろうが探せば似たような建物は存在しそうだ。
しかし異質なモノがこの教会にはあった。
それは部屋中に書かれている文字だ。どこに目を向けても文字がある。それこそ隙間もないぐらいにびっしりと。
日本語でも英語でもない奇怪な文字や図形が壁や地面、天井にさえ書かれている。
なんともいえない不気味さに鳥肌が立った。
「ではそこへ立ってください」
ヒューがチャペルの真ん中を指さした。そこには赤黒い五芒星が描かれていた。他の場所と比べてもそこだけ際立って不気味だった。
近くに立つとそれが血で描かれていることに気付いた。いつ書かれたのか定かではない。乾ききっているが血の匂いだけは濃厚に漂ってきた。
背筋が冷たくなる。しかし従わないという選択肢はなかった。
俺は大人しく陣の中心に立った。ヒューが満足そうに頷いている。
「では始めます」
今までの人を馬鹿にするような声とは打って変わって真剣な声で告げた。
これから何が行われるのかはわからないがとにかく気を引き締める。
死にたくない。その一心で。
ヒューの宣言によって教会中に記述された文字が仄かに発光した。
彼がステッキで、トンッと地面を叩くと文字が発する光量が増した。溢れた光が脈動し文字を伝い、立っている陣へと吸い込まれていく。
やがて陣がドクンと鼓動し、地面から浮かび上がった。
文字が複雑に絡み合い、変形、回転し立体を作っていく。
みるみるうちに組み上がっていくソレは檻のようにも見えた。
「これから君に神を降ろします。せいぜい自我を飛ばさないように」
そう言い残すとヒューが陣に触れ、彼の身体から紫色のオーラとでも言うべきものが溢れだす。
そして力ある言葉が紡がれる。
「『キタレ』」
ヒューの言葉に呼応するかのように陣が紫に輝き出した。
次の瞬間、耐えがたい激痛が襲いかかってきた。あまりの痛みに視界が明滅し膝をつく。
「グッ……」
全身が焼けるように痛い。視界が赤く染まる。喉の奥から何かが競り上がってきて、嘔吐した。どろりとした血の塊が地面を汚す。
腕に目を向ければ皮膚が裂け、至る所から血が滲み出ている。着ていた服がみるみるうちに赤く染まっていく。
「まだまだこれからですよ」
俺を囲っていた陣が突如として収縮し、身体の中へと入ってくる。瞬間、バチっと脳髄の奥で何かが弾けた。
「がぁあああああああああああああああ!!!」
全身を引き裂かれる痛みが、内臓を轢き潰される痛みが、血管に針を流し込まれたような痛みが、筋肉が断絶する痛みが。
絶え間なく、そして同時に襲いかかる。
世の中にこれほどの苦痛があるのかと地獄の苦しみの中で思った。
「ガッ――――――!!!」
絶叫で喉が潰れた。空気の抜けたような音が喉奥から漏れ出す。
もはや芋虫のように地面で縮こまることしか出来ない。
途中で意識が飛んでも、痛みで覚醒する。それはさながら終わることのない無限地獄。
精神が壊れるのは時間の問題かと思われた。
しかしその時、暖かな光が身体の中に灯った。その光が意識を正気へと引き戻す。
と思った次の瞬間には心が苦しくなるほどのドス黒い何かが身体の中に灯り、感情がぐちゃぐちゃに掻き乱される。
「これ……は? なんですか……それは?」
ヒューが初めて表情を崩した。今までの飄々とした態度は崩れ去り表情が驚愕に染まる。
しかしそんなことを気にしている余裕などなかった。
それ以降、ヒューが口を開くことはなく真剣なまなざしで俺の様子を観察していた。
どれだけの時が流れたのかもはやわからない。一時間かもしれないし、一分かもしれない。はたまた一年かもしれないし、数秒かもしれない。
時間の感覚さえ曖昧になる地獄の中で足音が教会内に響き渡った。
その足音はゆっくりと静かなのにも関わらずやけに耳に響いた。身体を動かす余裕はない。だからかろうじて動かせる目を必死に動かし、足音の主を見た。
そこにいたのは黒の和装を着崩した男だった。歳は三十代後半あたりだろうか。
闇を煮詰めたような漆黒の長髪、黒曜石のような瞳。はだけた胸元は浅黒く、分厚い筋肉に覆われている。背には大太刀を背負い剣呑な瞳をヒューに向けていた。
「これはこれはまさか実在していたとは」
ヒューがこちらに背を向け男に向き直る。
「ほう。オレの事を知っているのか?」
「それはもちろん。超越者で貴方様を知らない人なんて存在しないでしょう」
「それもそうだな。ならば……」
男は目を細めると絶大な殺気を撒き散らしながら口を開いた。
「ここがオレの領域と知っての狼藉か?」
絶対零度を思わせる極寒の声音。濁流のように押し寄せる濃密な殺気。全身を苛む痛みも忘れ、地面を這いつくばるようにして後退った。
ヒューは顔を青くしながらも「まさかこれほどとは」と呟いた。
「……滅相もございません。私の目的はあなたに会い、問いを投げかける事です。【神降ろし】は手段でしかありません」
「なるほど。オレがくれば良し。来なければ【神降ろし】を実行する……か。確かにオレはそれを見過ごせない。しかしオレに問いを投げかけるためだけに命を賭けるか。……おもしろい。本当ならオレが答える道理はないと言うところだがオレの前で【神降ろし】をするぐらいだ。その胆力に免じて一つだけ答えてやろう」
「ご寛大な配慮痛み入ります。では……」
ヒューは一度言葉を止めると大きく息を吐き出し瞳を閉じる。
文字通りヒューにとってこれは命懸けの問い。
これが男の逆鱗に触れたのならばヒューの命など火を吹くように消え去るだろう。
しかしヒューはこの問いを投げるためにここまで来たのだ。ここで怖気付くわけがない。
瞳を開けヒューは決然と問いを放った。
「貴方はこの世界の現状を正しく理解していますか?」
それは抽象的な問いだった。殆どの人間には意味をなさない問い。しかし解っている人物にはその限りではない。
「愚問だな」
しかして男は即答した。疑問を挟む余地もない断言。
ヒューの反応は劇的だった。常に纏っていた飄々とした雰囲気が掻き消え切羽詰まったように口を開く。
「ではなぜ……!」
「答えるのはひとつだけだと言ったはずだが?」
男はヒューの言葉を遮り、ギロリと睨み付けた。ヒューの頬を冷や汗が伝い、ゴクリの喉を鳴らした。
「しかし驚いたな。ヒュー・デア・アガルト。お前はそこまで辿り着いたのか。だからこその【神降し】……か。オレはお前の評価を改めねばならんな」
男の言葉にヒューは大きく目を見開いた。
「……まさかわたくしめを知って頂けているとは光栄です」
ヒューは大仰な仕草でお辞儀をした。
「殺すつもりできたが今すぐに去るのであれば見逃そう」
「わかりました。もう少しコレを観察したいところですが目的は既に達しましたので私はこれでお暇させていただきます」
ヒューは名残惜しそうにこちらを一瞥するとパチンと指を鳴らした。
すると教会内を覆っている文字の光が灯を消すように無くなった。身体からも痛みが引いていく。
「トウジ君いきますよ」
ヒューは蹲っている俺を一瞥するとすぐに視線を外し歩き出した。
どうやら待つつもりはないらしい。未だ痛みのおさまらない身体をひきづるようにして歩き出そうとした。
しかし一歩目で脚からは力が抜け地面に顔面を打ちつけた。
男はその様子を見ていた。俺が顔を上げると、男の視線とぶつかった。瞬間、男が大きく目を見開いたのがわかった。
「……待て」
男はヒューに対して待ったをかけた。
「そいつは置いていけ」
男の発した言葉が予想外だったのかヒューは足を止めた。
そして口を開こうとした次の瞬間、ヒューの右腕が吹き飛んだ。
「くっ」
ヒューが右腕を抑え、教会の外まで後退した。切断された腕からは血がどばどばと流れ出している。
「今すぐに去れと言ったはずだが?」
ヒューに男の冷徹な声が届いた。それと共に先程とは比べ物にならない殺気がヒューを襲った。もはや重圧と言っても過言ではない殺気にヒューは膝をつきそうになる。
しかし気合いで立ち上がるとお辞儀をひとつしその場から立ち去った。
男がこちらへと歩いてくる。なんとか立ち上がろうとするが上手くできない。それを見越してか男は側にしゃがみ込むと今まで纏っていた剣呑な雰囲気を消し、人の良さそうな笑みを浮かべた。
「坊主。後のことは心配しなくていい。今は寝ていろ」
その言葉に安堵して俺は気を失った。
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