第29話 運命
「わ、私には…。できない。」
ひかりは龍三がいるベッドの手すりを強く握りしめながらそう呟いた。
どんなに悪人であろうと、人の命を手に掛けることは許されない。ましてや肉親なのだから。
「お前さ〜。このどうしようもないジジイの血が、同じ血が流れてるっていうのに、こんな簡単なこともできないっていうの? あかりを見て、なんとも思わないのか? 毎晩毎晩、おもちゃのように扱われて、怒りの吐口にされ…。それでもお前は、あのジジィを始末できないっていうのか!?」
「あかり…。」
勇二は、枕に突き刺さったナイフを抜き取り、あかりの髪を掴み、顔を上げさせる。
苦痛に歪むあかりの顔。
その白い肌に、スッと撫でるように首筋へナイフを這わせる。後からうっすらと血が流れ出た。
「やめて!」ひかりは叫んだ。
「こうして傷をつけられることが、本当は好きなんだよな? ”お使い人様"?」
「ご、ごめんなさい。許して…。」
あかりの涙で血がさらに滲む。今ここにいるのは、幼いあかり。先程までの、自信に満ちたあかりとは全くの別人だった。
「言葉だけじゃわからないんだったら、僕がここで見せてあげる。どんなに酷いことが行われていたのか。」
「やめて! あなたは何がしたいの? お祖父様を罰したいなら、すればいい。私たちには関係のないことでしょ! これ以上あかりを傷つけないで!」
「それじゃ、何の意味もないんだよ。本当にお前は馬鹿だな。 僕は、お前も、こいつも憎くて憎くて仕方ないんだよ。」
首筋から胸元にかけてナイフが滑るように、あかりの体の線をなぞっていく。
「っ…。」
「あかり!」
あかりは痛みに耐えるように、ぎゅっと唇を噛み締める。
「私のことは憎んでいてもいい。私はあなたが言うように、何も知らずに、周りの人が死んでいくのをただ見ていただけ。あなたたちの痛みもわからない。でも…。」
「"お使い人様"は教えてくれたんだ。お前の手でこのジジィが葬り去れらた時、僕は解放される。新しい未来が始まる。って。 そうだよな。あかり。」
狂ってる。未来は自分の手で切り開くもので、決して他人が決めてくれるものではない。
「ごめんなさい。許して…。痛い…の…。」
「簡単だろ?ひかり。 そのスイッチを切ればいいんだ。 このままだと、大事なあかりの傷がどんどん増えていくな。 僕もあまり慣れてないんでね。深く刻んでしまうかもしれないよ。 雛形秋子のように。」
「やめて!」
「早く〜、日が暮れちゃうよ?」
上目遣いに、ひかりに微笑みかける。ひかりは初めて、勇二という人間に恐怖を抱いた。この男、行為を楽しんでる。
「決心がつかないなら、もっと良いことを教えてあげる。君の育ての親を殺したのも龍三だよ。僕はまだ慣れてないから、大きな仕事はできなかった。だから、ついて行ったんだ〜。君のあの家にもお邪魔したことがあるんだよ。」
まるで懐かしい思い出話をしているように勇二は話し始める。手に持ったナイフを身振り手振り振り上げながら。
「上条夫婦も、どうしようもない大人だったよ。せっかく橋本の叔父が手回ししてくれた過去の事を、蒸し返して来たんだ。親父は激怒したねー。だって上条夫婦は、追加のお金を要求して来たんだよ。警察がダメなら、メディアに訴えるってね。馬鹿だよねー。そんなことしたら、どんな仕打ちに遭うかくらいわかりそうだけどね。
あの人たちの最後のこと、聞きたい?」
ひかりは、憎しみが身体中に湧き上がってくるのを感じた。怒りとともに、自分のせいで人生が歪んでしまった育ての母と父を想い、涙が溢れてきた。
「何か言ってよ。つまんないな。」
「ほら、早く〜。君だけ手を汚さないなんて許されないでしょ。桜小路家の一員なら、それくらいやらないと。
あ〜もういいや。ひかり、君にはがっかりだ。君のせいで何人もの人が傷つき死んだっていうのに…。償いの気持ちはないのかね〜。」
「人を殺すことで償うことなんてできない。そうでしょ?」
「その目。嫌いだな〜。あの女と同じだ。 生意気で、傲慢で。」
勇二との距離が縮まる。
勇二の手がひかりの喉を掴み、そのままひかりを壁に押し付ける。ドスン。背中に鈍い痛みが走った。
「や、やめて。」
「いいね。その顔。その顔好きだな〜。もっと言ってよ。綺麗な顔を傷つけたくないでしょ?なら早くあのジジィを楽にさせてあげなよ。そのために君は生かしてあげたんだから。」
「く、苦しい。」
「雛形秋子、僕ね、あの女が初めてだったんだよ。知ってる?血って生暖かいんだ。ぬるっとしていて、道具に使った木の枝がぬるぬるして大変だったよ。」
ひかりは勇二を睨みつけた。苦しくて、かろうじて爪先立ちすることしかできないが、この男に弱さを見せては逆効果だ。
あかりは?あかりは大丈夫なのか…。
ベッドを挟んでぐったりしているものの、息はありそうだ。
「こうして、足を傷つけてあげたんだ。本当は僕はそこまでひどい男じゃないんだよ。暴れるから、ちょっと深く刺さっちゃったんだよね。そして傷が開いて血が流れる。最後は、許して〜助けて〜。大泣きしてたかな〜。」
秋子のあの傷は、この男が付けたものだった。ひどい。酷すぎる。
「ぐったりして、動かなくなっちゃたから、山に捨てたんだ。すぐ見つかっちゃたけどね。橋本さんにお願いして事故で処理してもらったんだけど、大変だったよ。意外とめんどくさいんだ。お金もかかるしさー。」
何を言ってるのかわからない。分かりたくもない。
ひかりは空いている両手で勇二の左腕に爪をたて、思いっきり引っ掻いた。
「いてっ」
勇二の手がひかりから離れる。
その隙を見逃さなかった。するりと勇二の背後に…逃げればいい。
「っ…」
自分の足元から痛みと共に血の匂いが漂ってきた。
「馬鹿だな〜。さっき説明してあげたでしょ? あまり動かすと出血がひどくなるよ。」
ひかりは傷口に手を当て、後退りをする。龍三のベッドがひかりを支えてくれた。
「そうだ、いい子だ。スイッチはそこだよ。」
「いや。私は誰も傷つけないし、殺さない。」
「まだそんなこと言ってるの?」
勇二が迫ってくる。
「あ〜あ、とっても残念だ。君はあかりとは違うね。双子なのに。3人でもっと遊べるかと思ってたのに。残念だ。」
また一歩勇二との距離が縮まる。
「お前も、お前の母と同じように、全てを自分の命で償え!」
もうだめだ。私は誰も救えなかった。あかりも、秋子も。
悟さん。ごめんなさい。また真相は闇の中に…。
いや、真相を調べちゃ駄目なんだ。私たちは無力。
ひかりは目をきつく閉じ、龍三のベッドにしがみついた。血が流れる速度で、じんじんと痛みが襲ってくる。
あたりがシーンと静まりかえった。龍三の医療機器の音すら聞こえない。
でも、足の痛みは感じる。
− 私、死んだの?
血の匂いと共に懐かしいシャンプーの香りが一瞬目の前を横切った気がした。
− あかり?
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