第38話 「勇二」

− 僕は何もしていない。


− そうだな。結局お前は何もできず、ひかりを殺すことも、あの爺を殺すこともできなかったんだからな。本当に使えないな。


− だって、君がお父さんを殺すのはひかりにやらせないと意味がないって言うから。

− さっさとやっちまえばよかったんだ。お前は本当に役立たずだな。


− もうやめて。


 勇二は耳を押さえ、うずくまる。

 ここは留置所の一室。頭の中で色々な声が聞こえる。うるさくて仕方がない。特に怯えた子どもの声が、心を掻きむしる。


「あいつは死んだんだ。」


 声に出してみる。そうすることで少し落ち着く気がする。


「あいつは死んだんだ。ははははっ。ククククっ」


 笑いが止まらない。監修に聞かれると厄介なことになるので、袖を噛み必死に笑いを堪える。


「自由だ。僕は自由になったんだ。」


 いつしか頭の中の子どもの声は聞こえなくなっていた。


 午後に橋本家の弁護士という男性が面会にやってきた。いかにも弁護士というような生真面目なスーツ姿で、メガネをかけていた。名刺をガラス越しに見せられたが、よく覚えていない。



* * *


「大変なことをやってくれましたね。」


 弁護士はため息まじりにそう言った。厄介者を見る目だ。


「僕は誰も殺してない。」

「桜小路龍三氏がお亡くなりになりましたよ。あかりさんも瀕死の状態です。」

「よかったじゃないか。せいぜい暴行罪程度ってとこかな?」


 龍三が死んだと聞かされた時、心の中が一気に軽くなる思いがした。これで自由だ!


「はぁ…。あなたは何もわかっていない。」

「あんたたち橋本家にとっても、あの爺は厄介者だったんだろ?感謝してもらいたいね。それに僕はあの爺には指一本触れてない。」


 弁護士は名刺をしまい、片付けを始める。


「な、何だよ。親父の時と同じように守ってくれるんじゃないのかよ。」

「無理ですね。あなたは過去のことを警察に話してしまった。証拠は上がらないでしょうけど、あの家に警察をあげてしまった。我々としては危ない橋は渡れません。」


 弁護士はメガネを掛け直し最後にこう告げた。


「今後あなたと橋本家は何の関係もありません。本日はそれを伝えにまいりました。あとは桜小路家の顧問弁護士があなたを弁護するか、あなた個人が雇うのかお任せいたします。それでは。」


「待てよ。僕がおたくらに頼まれてやったことだと言ったら、困るのはあんたらじゃないのか?」

「私どもを恐喝するおつもりですか?」

「真実を話すのみだ。」


 勇二の言葉に弁護士は鼻で笑った。


「誰があなたの言葉を信じるでしょう。人は強気者を信じたいものを信じる。ですよ。」


* * *


 反論の余地はなかった。男はさっさと部屋を出て行った。

 冷たい部屋の中で、勇二は先ほどのやりとりを思い出す。


 それまでの開放感はどこかに消えてしまった。

 桜小路家の者にとって、勇二は使用人の一人だ。ましてや妾の子であればなおさら、弁護人を立ててはくれないだろう。


 留置所の中で勇二は子どものころを思い出していた。あの頃からずっと一人だった。鍵のかかった狭い部屋。まさしく今勇二がいる留置所のような部屋。


 母親の舞奈は勇二が物心つくと、勇二を鍵のかかった部屋に閉じ込めることが多くなった。格子状になった牢屋のような空間。龍三に呼ばれると、鍵をかけ勇二を残し別の部屋へ行く。どんなに泣いても、お腹が空いても戻ってはこない。


 ある日勇二は鍵を開けることに成功した。鍵を開ける楽しみは達成感に似たものがあった。そして好奇心から、母の後をこっそりついて行ったことがある。気づかれないように後をつけると、母は障子で区切られた部屋に入って行った。


「遅かったな。」

 低い男の声が聞こえる。中には龍三がいるらしい。


 大人しく待っているように。と言い付けられていたが母はどこに行くのだろう?という好奇心を勇二は捨てられなかった。中では何が起きているのだろう。


 しばらくして、部屋の中から龍三の怒鳴る声が聞こえた。

 母が怒られている!助けなければ!その一心で部屋に近づく…、でも部屋を開けて中に入る勇気はなかった。


 少し、ほんの少し障子を開けてみる。


 中には見たこともない景色が広がっていた。


 馬乗りになっている龍三。胸元のはだけた母の姿。母の首には紐が巻かれており、首を絞められたような、赤い擦れた痕が残っている。その上から龍三がナイフをゆっくりと母の肌に添わせ傷をつけていく。


 何より勇二の心に戦慄を覚えさせたのは、母の顔だった。喜びに満ちた顔を見せている。


 勇二は動けなかった。見てはいけないものを見てしまった。でも母の喜びに満ちた顔は素晴らしく素敵だった。


 ガラっ。と勢いよく障子が開け放された。龍三が目の前に立っていた。大きくてデブっとしたお腹をした龍三が、上から鋭い眼差しで勇二を見ている。


 すごく獣のような匂いがする。


「面白いか?」


 勇二は慌てて部屋に戻った。初めてみる光景。心臓がドキドキしている。母に怒られるという気持ちだけではなかった。他の感情が湧き出ていたのは否定ができない。

 子どもの勇二には、何が起きていたのかはわからない。ただ、母は綺麗で父は恐ろしい化け物だということだけ、繰り返し繰り返し頭の中で再生される。


 その日、母は戻ってこなかった。


 翌日何事もなかったかのように、勇二を起こしにきた舞奈。首にスカーフを巻いていた。いつもの寂しそうな顔の母がそこにいた。


 それからというもの、しばしば龍三は舞奈との時間に勇二を連れてくるよう指示することがあった。


 勇二が5歳の誕生日を迎える頃だったかと思う。


「そこで見ておけ。」


 龍三の行為を目の当たりに見せつけられた。勇二が耐えられず泣くと殴られた。その場を逃げようとすると、髪を掴まれ母のそばに投げ倒された。痛い。痛い。また泣くと殴られ蹴飛ばされた。


 母は守ってはくれなかった。


「お前は息子に醜態を見せることで、さらに綺麗になる。」

 龍三はそう言っていた。


− あいつも、母さんもどうかしてる。狂ってる。


− お前もな。みんな狂ってるんだよ。


 頭の中の声がそう語りかける。何がおかしいのか引きつった笑い声まで聞こえてくる。


「僕のせいじゃない。」


− あいつが悪いんだ。全てあいつが。死んでまでも僕の心を支配するな。やめてくれ。


− もっと自信を持ったらどうだ?お前は誰もが心の中に持っている闇を具現化できた強者なんだ。お前はあかりだけじゃない。もっと多くの人の心を救うのだ。俺たちの母親も、あいつによって解放されていたじゃないか。


「救う?」


− 心の中にいる鬼を解放しろ。もっともっと楽しいことが待ってる。


「僕にどうしろと?」


− まずは、ここを最短で出られることを考えろ。話はそれからだ。


 勇二は狭い留置所の中にいる。ここから出ることを考える。明日も取り調べだ。ここから逃げるということか‥。考えろ。


 ガチャン。と音が聞こえた。


「宮下勇二。面会だ。」


 制服の警官に連れられて、先ほどとはまた違う部屋に通される。


 部屋に入るとそこには見たこともない女性が座っていた。

 知的な女性。足を組み腕組みをし、自分にできないことはない。と言わんばかりの威圧感を出している。


「誰?あんた。」

 勇二は椅子に座るとまじまじと女性を見る。全く見覚えがない。


「龍三さんの隠し子。って言ったら信じてもらえるかしら?」


 挑発的な態度だ。黒のパンツスーツに、胸元の開いた白いシャツ。赤いヒールに赤いカバンといういでだち。胸元にはダイヤだろうか、大きな石が3つ縦に並んだネックレスをしている。自信のある胸元に視線がいくように計算されているのかもしれない。髪は長く綺麗に毛先が巻かれて整えられている。

 女王様タイプだ。龍三の娘というのもあながち嘘ではないのかも?と思わせる。


「ま、あんたみたいな人がいてもおかしくはないかもな。で、僕に何の用?」


 勇二は机に肘を乗せ、両手で顎を支える様に前屈みになった。勇二のことを知らない人が見たら、モデルのように綺麗で可愛らしい整った顔に惚れ惚れするところだ。


「あなたをここから出してあげる。」

「は? できっこないさ。」

「私に不可能はないわ。あなたがその気になればだけど。」


 勇二は少し考えた。龍三に他に女がいたとは思えない。ということはこの女性もどんな素性かわかったものではない。


「君の力はいらない。」

「橋本さんもあなたに見切りをつけたようじゃない?これからどうするの?一人じゃ何もできないくせに。ずっとここから出られないわよ。」


 痛いところをついてくる。


「しばらくは、ゆっくりするさ。誰も僕に命令することはできない。」

「そう、残念だわ。あなたには私と、それからそう心のケア…カウンセリングが必要ね。また会いましょう。」


 そういうと女性は部屋から出て行ってしまった。


− カウンセリング? そうか、その手があるのか。


 勇二の口元がニヤリと歪んだことを誰も気づいていない。


− 何から始めるかな。

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