第18話 「柚莉愛」

 洞窟特有の水とカビが混じり合ったような匂いが、柚莉愛ゆりあの鼻をつく。今彼女は一人、洞窟の奥へと進んでいる。

 手には、先ほど作ったサンドウィッチと、大きなカバンを抱えて。


 子どもたちには近づいてはならない。と教えているこの洞窟。柚莉愛ゆりあはほぼ毎日、人目をしのんでここにやってくる。来なければならない理由があるからだ。


 ごろごろとした石が足元に転がっている。とても歩きづらい。懐中電灯で足元を照らしながら慎重に前に進む。


 一本道を進んでいくと、奥の方にゆらゆらと揺れるあかりが見えてきた。それこそが、柚莉愛ゆりあが毎日通う理由。細い道を、少し前屈みになりながらさらに奥へと進む。その先に‥洞窟の地形を活かした牢屋の様な空間があらわれた。


 そこに一人の女が血だらけになり横たわっている。


舞奈まなさん!」


 柚莉愛ゆりあは女の元へ駆け寄った。


 まだ息はあるようだ。舞奈まなと呼ばれたその人物は、ぐったりと地面に横たわり、顔には苦悶の表情が見てとれる。


 顔には複数の殴られた後があり、血がべっとりとこびりついていた。

 薄着の着物を着ている様だが、腰紐は解け、太腿もあらわになっている。その太腿にも大きなあざと、無惨にも切り付けられたような跡がいくつもあり、血が乾いてミミズ腫れのようになっている。さらに、地面には黒く変色した血が点々とついており、傷の深さを思い知らされた。


「…。ひどい…。」


 目を背けたくなるような光景だった。


「いつもより、ひどい…。なんて‥。」 


 柚莉愛ゆりあの目からは大粒の涙が溢れ、そっと舞奈まなを抱き起こす。早く手当をしないと。


「…うっ」


 少し動かしただけで舞奈まなは苦痛の声をあげた。


「ごめんなさい。今すぐ手当てしますから」


 血の匂いが漂ってきた。抱きかかえた柚莉愛ゆりあの手にも舞奈まなの血がべったりとついている。足だけでなく腕や胸にも深い傷がある様だ。舞奈まなを動かしたことで傷が開いてしまった可能性がある。


「お願い…。死なせて。」


 舞奈まなはぐったりしながらも、柚莉愛ゆりあに懇願する。


「そんなこと、できません。舞奈まなさんには生きていて欲しいから。お願いです。そんなこと言わないで…。」


 あなたのお腹にも小さな命が宿っているのだから…。という言葉は、あまりにも残酷すぎて伝えることができなかった。


 柚莉愛ゆりあにも桜小路家の血が流れている。


 そう、柚莉愛ゆりあにもはっきりと見えているのだ。舞奈まなと小さな男の子が…。その未来は血に染まり、憎しみのこもった小さな目が、柚莉愛ゆりあに訴えかける。「殺せ」と。

 いっそのこと希望通りに死を与えた方が幸せなのかもしれない。でも、未来は変えられる。柚莉愛ゆりあはそう信じて、舞奈まなを助けたい。と心から思っていた。


 舞奈まなは、お手伝いとして桜小路家に住み込みで働いていた。若く、笑顔の素敵な女性だった。紅夜べによをはじめ桜小路家の面々は、舞奈まなをとても気に入った。


 そんなある日、舞奈まな柚莉愛ゆりあの父、桜小路 龍三さくらこうじ りゅうぞうの目に止まってしまったのだ。龍三りゅうぞうはまるで新しいおもちゃでも見つけたかのように、舞奈まなに執着した。

 舞奈まな龍三りゅうぞうを受け入れないと知った時、事態は最悪の方向に舵を切ったのだった。


 怒り狂った龍三りゅうぞうは、舞奈まなを殴り、蹴り、欲望のままに手に入れた。舞奈まなの両親に多額の金を積んで、黙らせたのだ。それからずっと舞奈まなは自由を奪われ、龍三りゅうぞうのなすがまま、歪んだ感情が自分の身に与える苦痛をひたすら耐えるしかない生活を余儀なくされていた。

 どんなに悔しくて、どんなに辛かったことだろう。舞奈まなの置かれた環境を考えるだけで、胸が締め付けられる。


 代々桜小路家は女系の家で、婿養子を迎えるのが常である。その中でも際立って権力を持つ龍三りゅうぞう。大きな体と太い手足。政治家との太いパイプを持ち、とにかく迫力のある男だった。紅夜べによですら、龍三りゅうぞうの行いに口を出すことができないでいた。


 妻の小夜さよに至っては、龍三りゅうぞうの暴力・性欲の矛先が若い舞奈まなに向けられたことで、内心ほっとしているかのように、一切口出しすることも、止めることもしない。小夜さよ本人も、柚莉愛ゆりあの幼い頃はアザが耐えず、いつも龍三りゅうぞうの顔色を伺っているようなそんな状態だったのだ。だから今の状況は彼女にとっては好都合とも言えるのだろう。


 舞奈まなを痛ぶり倒した後の龍三りゅうぞうは、しばらくの間とても機嫌が良い。だからなおさら今の状況を変えようと奮い立つ者は誰一人いなかった。


 そして柚莉愛ゆりあもまた、舞奈まなの境遇に同情することはできるが、彼女を助けることができずにただ、食事・排泄物などの身の回りの世話をすることしかなす術は見当たらなかった。


「…。ごめんなさい。」


 あの男は鬼だ。舞奈まながいなかったら、龍三りゅうぞうの歪んだ感情はあのまま柚莉愛ゆりあに向けられていたかもしれない。

 そう、柚莉愛ゆりあもまた舞奈まなと同じ…。龍三りゅうぞうの性癖の的になっていたのだ。誰にも言えない秘密。母の小夜さよは、決して助けてはくれない。


 そして今、柚莉愛ゆりあ龍三りゅうぞうとの間に新しい命を…宿している。


「お願いです…。楽にさせて…ください。」


 腫れ上がった唇で、舞奈まなは懇願するが、どうすることもできない。


「食事を…。」


 きっと今の状態では口を開けることもできず、そばに湧く清らかな水すらも口にできないだろう。それでも柚莉愛ゆりあには、こうすることしかできなかった。


「では、また来ます…。」


 柚莉愛ゆりあが立ちあがろうとした瞬間、傷つき倒れている舞奈まなのそばに、血に塗れた幼い男の子が現れた。現れたというより柚莉愛ゆりあだけ見えている光景なのだろう。


− もう…。たくさん…。


 遅かれ早かれ、舞奈まなのお腹も目立ってくる。舞奈まなも自分も相手にできないと分かった時、龍三りゅうぞうの矛先は…。


− 守らなくては。私の子どもたち…。


 子どもたちのためなら、鬼にでもなれる。神からもらった贈り物など捨てても構わない。柚莉愛ゆりあ舞奈まなの手当を終え、その場を後にしたのだった。


「…。お願い。殺して…。」


 舞奈まなの声が耳の奥にこびりつく。


−ゆるして…。

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