第30話 真実
暗闇の中、ひかりは足の痛みを感じていた。ドクンドクンと太ももからふくらはぎににかけて、血がとろんと流れ落ちているのがわかる。
人が動いたからだろうか、ふわっと優しい風が流れてひかりの頬を撫でる。桜だ。桜の花びらが、舞い落ちてきたのだ。
「桜?」
今の季節、桜は咲いていないはず。不思議に思い、痛みをこらえ窓の方角に目を向けた。
「桜…。キレイ…。」
見えるはずのない大きな桜の木が、満開の花を咲かせていた。
優しい風にヒラヒラと舞う桜の花びら。子どもの頃あかりと眺めていた大きな桜の木がそこにあった。
誰かが桜の木のそばに立っている。
長い黒髪、赤い唇が印象的な綺麗な女性が、こちらをじっと見つめている。彼女はとても悲しい目をしていた。
「お願い。もう、終わらせてください。」
女性の透き通った綺麗な声が聞こえる。ひかりの心の中に訴えかけるようにはっきりと聞こえた。
「だ、だれ?」
「桜小路家は、神に愛され、力を得る代償として、鬼にも愛される運命を背負わされました。お願い。もう終わらせてください。 光と闇が交わる時、光は闇に飲み込まれる…。でも‥、闇に勝てる力が、あなたにはきっとあります。」
幼い頃、紅夜から聞かされた言葉だった。
「あなたなら、終わらせることが出きる。闇に飲み込まれた私たちとは、違う未来を手に入れられる。大丈夫。だから諦めないで。」
「待って!」
その女性は桜に吸い込まれるように消えていく。悲しい笑みを残して。
「私が…。神以外の人を愛してしまったから…。ごめんなさい。」
最後にそんな言葉が聞こえたような気がする。
「終わりにするって、どうゆうこと?どうすればいいの? ねぇ、教えて!」
ひかりは叫んだ。暗闇の中、遠くに見える桜に向かって。でも誰も応えてはくれない。
「このまま、私も死ぬの? 秋子。お義母さん…。ごめんね。なにも出来なかった‥。」
足の痛みで気を失いそうになる。桜の木もだんだん遠くに消えていくようだ。
「ひかり!ひかり!諦めないで!」
遠くから女性の声が‥聞こえてきた。自分の名前を呼ぶ声が。
「秋子?」
「まだ真実は明らかになっていないの。諦めないで!あの男を止めて。」
秋子の声が聞こえる。はっきりと。
「いい?左によけるの。そして、そのままベッドの下に身を隠して!」
「えっ?」
「お願い。」
パンっと言う破裂音と共に視界が急に明るさを取り戻した。目の前には怒り狂い歪んだ勇二の顔が。その手にはナイフが握られている。
ひかりは咄嗟に左に避け、龍三のベッドの下に体を滑り込ませた。ちょうどあかりをかばうかのようなポジションで、向かい側の壁近くで体が止まった。
「あかり、大丈夫?」
「ごめんなさい…。ごめんなさい…。」
体を小刻みに揺らし、ブツブツと同じ言葉を発している。
「しっかりして、あかり!」
あかりには見えているのだろうか、この結末、未来が。
− 私は、諦めない!あかりのためにも、私のためにも!
「もう、本当にいいや。めんどくさいなぁ…。せっかく新しい未来を3人で作っていこうって思ってたけど、君にその気がないのはわかったよ。」
勇二は寂しそうな顔でひかりを見つめる。勇二もまた龍三の被害を受けた子どもの一人。哀れな悲しい人生を歩んできた一人。
「ひかり、お前にできないならさ、あかりにやってもらうしかないよな。ほらあかり、こっちに来るんだ。」
勇二はあかりの腕を掴み、強引に引き寄せた。
「ごめんなさい…。ごめんなさい…。」
あかりは、抵抗する気力もなく勇二のなすがまま、龍三のベッドの脇に立たされる。
「やめて!お願いっ」
ひかりの言葉は完全に空を切り、勇二にもあかりも届かない。勇二はナイフをあかりに握らせ、ぐいっと龍三の顔の近くにあかりを押し倒す。
あかりは苦痛で顔を歪めながら、ボロボロと涙を流すことしかできないでいる。
「”お使い人様"、僕たちは教えを受けただろ?この鬼畜野郎から。神の声を聞くための儀式なんだよ。さぁ。やるんだ。そしてこの男の呪縛から、僕を解放してくれ。」
「い、いや。神の声なんて聞こえない。ただ、私は…。ひーちゃんより選ばれたことが嬉しかっただけ…」
押さえつけられたあかりから、言葉が漏れ聞こえてきた。
いい終わるや否や、あかりは勇二の手を振り解き勇二を突き飛ばした。どこにそんな力が残っていたのかわからない。勇二は油断していたからか、ふらっとよろめいた。
勇二の左腕から血がポタポタと落ちる。今の一撃であかりのナイフが勇二の腕を斬りつけたのだ。
「あかり!」
ひかりも、力を振り絞りあかりの側に駆け寄る。龍三のベッドの手すりが今、二人を支えている。
「お祖父様に選ばれたのは私。神に愛されたのも私。だから、我慢しなくちゃいけなかったの。全部。ぜんぶ…。」
「あかりはいつも頑張ってた。わかってる。わかってる。ごめんね、あかり。」
ひかりはいたたまれなくなった。何も知らなかった自分を責めた。
「でも…。お母様は、ひーちゃんが大事だった。まー君よりも、私よりも。私、ひっくっ。知ってたの。だから、ひっくっ、お祖父様に選ばれた時は嬉しかった…。だから…。ひっくっ。」
「だから、実の弟を殺したんだよな。ジジィの指示に従ってな。」
冷たい声が響く。
「な、何を言ってるの? あかりが‥殺した?」
あれは…あの惨劇は龍三が起こしたもの。父でもなく、あかりでもない。
ひかりの記憶には、裸の龍三が返り血を浴びて血だらけになり斧を片手に立っていた。龍三が皆を殺したんじゃ?
ちょっと待って…。
あの時、あかりは血だらけだった。でも服は?母が服を着せていた? なぜ?あの時あかりも血だらけでここに居たと言うこと?
何が起きたのか、母は全て知っていたの?
あかりの手は血でべったりと濡れていた。汗だとばかり思っていたけれど。あれは血だった。だからあの時、血の匂いがとても濃くて、吐き気がするほど血が濃くて…。
「儀式だったんだよな? 僕たちの中にいる鬼を追い出し、神と繋がるための儀式。」
あかりは、黙ってうつむいている。
「そんな儀式あるわけないじゃない!」
「そうだよ。あるわけがないんだ!このジジィは、楽しんでたんだよ。あの頃の僕たちには、そんな判断なんてできなかったんだ。そしてあかりは、実の弟の魔裟斗を殺した。そして、僕の大事な、たった一人の母も…。くっ…。」
勇二は唇を噛み締め、怒りと悲しみに耐えている。始めてなにも出来なかった子どもの自分を後悔しているように見えた。
記憶の中の大人の足は、勇二の母だった?あかりが大の大人を殺せる?あり得ない。
勇二は、お祖父様とその女性との間に生まれた男の子…。
そうだ、魔裟斗には、いつも一緒に遊んでいる男の子が居た。この離れに住んでいた男の子。
その男の子の名前は…?
思い出せない…。
- お祖父様はお婆さまの他に女の人をここに住まわせていたんだ。
ひかりの記憶の糸が解けていく。
紅夜が亡くなった後、ひかりは離れに立ち入る機会がほとんどなくなっていたから、龍三が舞奈を離れに住まわせたことも、勇二の母親のことも知らずにいたのだった。
「僕は、母を見殺しにした。こいつが母を切り刻むのを黙って見ていたんだ。母の中にある鬼を退治するためだという、この鬼畜野郎の言葉を信じて‥。」
「そんな‥。」
信じない。信じたくない。
「お前たちの母親がこの部屋に飛び込んでくるまで、儀式は永遠に続くかと思ったよ。風を切るような音。魔裟斗の鳴き声。最初はいつもと同じ、傷は深くなかったんだ。母も喜んでた。喜んでいたように見えたんだ。」
その場にいて、記憶を映像化しているかのように勇二は両腕で天を仰ぎ、語り始めた。
「それが…。それがこのジジィは気に入らなかったんだ。もがき苦しむ顔が見たかったんだろうな。行為はどんどんエスカレートしていった。風を切る音は速くなり、それに合わせて彼女の出血も激しさを増し、僕の顔にも母の血が飛んできた。
最後はあかりだ。
あかりが、母を斬りつけた!すごい勢いで血が吹き出し、目の前が真っ赤に染まったんだ。僕は必死で母の傷を抑えようとしたけど、無駄だった。」
勇二はぐったりと項垂れた。
「次はガン泣きしている魔裟斗だ。あ〜うるせいっ。黙らせろ! 僕だってそう思ったさ。そうしたら、あかりが一瞬で魔裟斗にナイフを向けて、力一杯斬りつけてた。あっと言う間に、魔裟斗は静かになった。ゴボゴボ何か言ってたけどな。ジジィがあかりを褒め称えてた。お前は宝だって。誉められているあかりを初めて見たよ。」
あかりの手が震えている。握ったナイフを強く握りしめて。
「その時、お前たちの母親、柚莉愛が飛び込んできたんだ。惨状を見てすぐにあかりに服を着せ始めた。僕はね、ただ黙って…死んでいく母の側にいることしかできなかったんだ。お前たちの母親もまた、僕らの存在をなかったことにしたんだ。目の前で死んでいく女にも、小さな僕にも目もくれずにね。」
柚莉愛にはわかっていたのだ。舞奈が助からないことを。だからあかりを、あかりだけでも助けることに意識を傾けていたのだ。
「その後のことは、ひかり、お前の記憶の通り。お前があかりを連れて逃げたんだ。その後のことを知りたいだろ? 残された僕と、お前たちの母親がどうなったか。」
聞きたくない。知りたくない。ひかりは目を背けようとしたが、怒り狂っている勇二から目が離せなくなっていた。
あかりもまた、苦痛に耐えながら、一歩も動くことができず肩で荒い息をしている。ひかりには後ろ姿しか見えないので、あかりの表情は見て取れない。でも必死に過去の自分と戦っているように見える。
「"お使い人様"? 僕が憎いか? 君の薄暗い過去を知っている僕を殺すか? 邪魔だった弟を殺めたように。 今、僕は無防備だ。ナイフは君の手の中にある。さぁ、やればいい。殺せ。」
勇二はあかりの元へ一歩。また一歩近づく。
「あかり!ダメ!」
「殺せぇぇぇぇぇぇぇっ」
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