第34話 桜とひかり

「桜…。」


 優しい風といくつもの花びらが、ひかりを優しく包み込む。

 目の前に、大きくて立派な桜の木が立っていた。その桜の木が風に揺れて満開の花びらを散らしている。


 子どもの頃、あかりと眺めていた桜の木だった。大きくて、手を広げて包み込むような桜の木。


 気がつくと、ひかりは離れの縁側に座っていた。


「綺麗ね。桜って。」


 ひかりの隣に少女が座っていた。懐かしいいい香りのする少女だった。あどけなさと、少し大人びた声。穏やかで、優しい声。


「ねぇ。そう思うでしょ?」

 少女が振り向き、ひかりに微笑む。どこかで会ったような懐かしい顔がそこにある。誰だろう…?


「そうね。本当に綺麗。子どもの頃、妹とよくこの桜を見ていたのを思い出すわ。」

 本当に立派な桜。自慢の桜。


 子どもの頃、あかりとどちらが早く、高い場所で桜の花びらを捕まえられるか競争したことを思い出した。


 隣に座っていた少女は、フワッと庭に降り立ち、ひかりの方を振り向いた。長いサラサラの真っ直ぐな髪が風にまう。桜の妖精が降り立ったかのような可憐で儚い透明感のある少女だった。


「私もこの桜が大好き。優しくて暖かくて。」


 少女はステップを踏むようにくるっと回転する。長い袖が舞い、桜の花びらがふわりと少女の周りで舞い踊る。


− 綺麗だな〜。


 ひかりは少女を眺め、そんな感想を抱いた。


「ねぇ、知ってる?」

「うん?」

「桜はなんで、こんなにも早く散り急ぐのかって。」


 少女はひかりの方に振り向き、微笑む。彼女が微笑むと桜が喜んでいるかのように花びらが舞う。


「う〜ん。なんでだろう。考えたこともなかったな〜。どうして?」

「桜はね、綺麗であればあるほど、鬼に見つからないように早く自分を散らしてるんですって。」

「えっ?鬼?」

「うん。桜が教えてくれたの。」


 少女は桜の花びらを追うように、手をかざす。


− 不思議な子。


「この桜は、色々なことを教えてくれるの。嬉しいことも悲しいことも。そして私の中にいるもう一人の私が、知りたくないこともたくん教えてくれる…。」


 少女は手のひらの桜を見つめながら、寂しそうにそう呟く。


「もう一人の私?」

「うん。そう。」


 ひかりの掌に、少女は舞い降りた桜の花びらを乗せた。


「あなたにもいるのね。もう一人の自分が。」

「え?」

「大丈夫。あなたはたくさんの人に守られてる。だから大丈夫。私たちみたいに鬼に見つかることはないわ。」


− 鬼に見つかる? あかりのこと?


「真っ直ぐに、自分の信じる道を進んで。」


 少女は泣きそうな笑みをひかりに向ける。悲しい未来を、変えることができない未来を運命付けられた少女の顔だった。


 寂しげで、でも力強く生きる生命力。ポキッと折れそうな儚さの中に真の強さを兼ね備えた、とても不思議な少女にひかりは心を奪われた。


 そして…気づくとひかりは少女を抱きしめていた。


「ごめんね。私だけ、私だけ何も知らずに…。頑張らなくていいのに…。私に何かできることはある…?あなたを、あなたたちを助けるために私にできること。」


 初めて会った少女に、ひかりは許しを乞うようにそう伝えることしかできなかった。少女のサラサラの髪、抱き締めると細くて折れそうな身体、どうしようもなく愛しい気持ちにさせる。守りたい。守らなければならない。という気持ちが心の底から湧き上がってくる。せめてこの少女だけでも、辛いことから解放してあげたい。


「何で泣いているの? 私は大丈夫。寂しくもないわ。だって、これが私たちの運命だから。知ってるの。だから大丈夫。」


 少女はひかりから体を離し、ひかりの涙を両手で拭う。


「泣かないで。私たち‥、あなたを守れてよかった。」

「…。」


 優しい目がひかりを見つめている。母の面影と重なり、少女の顔が滲んでぼやける。


「ずっと、ずっと何も知らなかった。何もわかってあげれなかった…。ごめんなさい。お母さんも助けてあげられなかった。あかりも秋子も、みんな…。お義母さん。お義父さん…。ごめんなさい。」


「泣かないで。あなたのせいじゃないの。私に見えている未来は、鬼の呪縛から解放された素晴らしい未来。あなたが成し遂げてくれた未来。」

「私は何もしていない…。何もできなかったの。誰も救えてないの。」


 涙が止まらない。


「もう泣かないで。」


 少女は少し困った顔をする。


「前を向いて。あかりを、あなたが救ってくれたの。鬼から解放してくれた。私たちには出来なかったことを、あなたはしてくれたの。あなたは鬼の誘惑、闇に勝った。」

「あかり…。」


 少女は優しい笑顔でひかりを見つめ、そっと離れていく。


「もう時間がないの。」

「待って!」


ひかりの手は少女の腕を掴むが、強い力で引っ張られるように少女は桜の方へ引き寄せられていく。


桜の根元から、どす黒い煙のようなものが流れ出てきている。まるで少女を包み込みそうな勢いだ。


「ダメ。そっちに行ってはダメ!お願い。逃げて!」


 ひかりは必死で訴えかける。


 少女の微笑みは変わらない。


「ありがとう。」


 ひかりは腰が抜けたように縁側から庭に降り立つことも、少女を止めることもできない。ただ少女が闇の中に引き込まれるのを見ているより術がなかった。


「逃げて…。」


 ひかりの言葉は虚しく空を舞っている。


「ひかり。ありがとう…。本当にありがとう。あなたは私たちの希望。」

「お願い。どうすれば助けられる?あなたを解放してあげれるの?」


 少女の体は半分以上闇に覆われている。少女は一粒の涙をこぼした。初めて見る涙。


「私はここにいる。ずーっと。ここで見ている。私の名前は… 咲夜…。」

「待って!」


 少女は目をつぶり、闇に飲み込まれていった。その闇は次第に小さくなり桜の根元のあたりに吸い込まれていった。


 しばらくひかりは体に力が入らなかった。


- 咲夜胡‥。


 思い当たる名前はたった一人だった。


 この桜の木の下で王子様のような素敵な男性と恋をした。という話は紅夜から聞かされたことがある。その後何があったのだろう? 


- ここにいる‥。


 あの闇は何? 今のひかりには知るよしもなかった。


『ひかり、起きて!目を覚まして』


 遠くから女性の声が聞こえる。

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