第44話 桜
− 暖かい…。
ひかりは今、部屋のバスルームにいる。客間の内装は外観からは想像できないほど洋風にアレンジされていた。檜風呂ではなくバスタブが用意されている。
バスルームの部屋の明かりを消し、用意されていた蝋燭に火を灯してみる。ゆらゆらと揺らぐ灯りが湯に反射してキラキラしている。そして懐かしいシャンプーの香りに包まれ、ひかりは眠ってしまいそうだ。
意外と体は疲れているのかもしれない。
ありがたいことに部屋には着替えが用意されていた。下着まで一式。なんとも気のきいた対応、感動さえ覚える。
そんなことを考えながら、ひかりはうとうとし始めていた。勇二に刺された足の傷跡がまだ左の太ももに残っている。手術の後が10cmほど。端の方から糸が顔を覗かせている。いつも迷う…。抜いてしまっていいものかどうか。医者からは自然に体に溶け込むので気にしなくていい、と言われてはいるが気にはなる。
そしてこの傷を見るたびに、あの事件を思い出す。
ひかりは傷跡にそっと指を這わせた。
「あかり…。」
双子はシンクロ率が高いと言われている。子どもの頃、ひかりが怪我をしたりお腹が痛くなったりすると、あかりも痛みを感じていた。逆もしかりだった。
今はどうなのだろう…?
ちゃぽん。ひかりは肩までお湯に浸かり目を閉じる。
小さな女の子が泣いている。腰の近くまで伸ばした髪、白いワンピースを着て素足のまま立っている。髪の毛も服もぐっしょりと濡れていて、雫が床にポタポタと流れ落ちている。
「どうしたの?」
ひかりは少女に手を差し伸べる。だがひかりと少女の距離は決して縮まることはない。
「ヒックっ。ヒックっ」
少女は泣き続けている。
小学生くらいの少女。胸の辺りが少しふっくらして見える。服が濡れているのでふくらみが目立つのかもしれない。
「こっちにおいで。拭いてあげる。そのままだと風邪をひくよ。」
少女は言われた通りゆっくりとひかりの方へ歩み寄ってきた。少女は胸元を隠すように両手で祈るような格好で震えている。
「大丈夫。何もしないわ。」
やっとそばに来てくれた少女を優しくタオルで包み込み、服を脱がせ濡れた身体をそっと拭く。
服の下から現れた身体に無数のアザが付けられているのをひかりは気づいた。青黒くなっているものから、新しい赤いアザまで。腕には人の指の跡までくっきりと残っている。強く握られた証拠。
「これは…。」
少女は必死に泣くのを我慢しているようだ。ひかりは俯いている少女と目線を合わせる。
「痛かったね…。我慢してきたんだね。偉かったね。」
ひかりは少女の頭を乾かしながら少女と目線を合わせられるようにしゃがみ込む。
少女は黙って、ひかりのなすがままじっとしている。
「もう大丈夫。お姉さんたちが守ってあげるから。」
児童相談所に相談しよう。彼女を保護してもらわなければ。ひかりはそんなことを考えていた。
「ひーちゃんには、守れない。」
少女は消え入りそうな声でそう呟く。
「うん?どうしたの?」
ひかりは優しく聞き返す。
「ひーちゃんには、無理。誰も私たちを助けられない。」
少女は大きな声で、ひかりを責め立てる。その目は涙で赤く染まっていた。
「あかり…?」
「ごめんなさい。私が悪いの。ちゃんとできないから。お祖父様の言う通りにできないから…。これは…。これは神様の声を聞くために必要なことなの。」
「そんなことない。あかりは悪くない。ちゃんとできなくていいの。」
ひかりは目を逸らす少女に向かって諭すように言い続ける。
「本当はどうしたいの?あかり…。言っていいんだよ。助けてあげる。今度はちゃんと助けてあげる。」
「ひーちゃん…。私…。」
ひかりはじっと、少女の次の言葉を待つ。
「た、助けて欲しい。もう痛いのも辛いのも嫌。お願い助けて。」
少女は必死にひかりに訴えかける。涙がポロポロ落ち続けている。
「大丈夫、落ち着いて。もう大丈夫よ。」
「桜が…。桜が呼んでる。逃げられない。嫌。行きたくない。ひーちゃん、助けて!」
少女の足元が黒く歪み始め、みるみるうちに沈み始めていく。
「あーちゃん!」
ひかりは少女の両脇に手を回し、抱き抱えるように支える。でも…、沈み込む力は相当なものだ。
ブクブクっ。泡を立てて少女は黒い影の中に飲み込まれていった。ひかりの手はまだ少女を掴んでいる。ひかりの顔も影の中に吸い込まれそうだ。
− く、苦しい。あかり…!行かないで。
ブクブクブクっ。
鼻から入ってくるお湯でむせかえる。ひかりは湯船で溺れかけていたのだ。周りを見れば少女も黒い影もなく、そこは蝋燭の灯りに照らされたバスルームだった。
「夢…?」
ひかりは息を整え、バスタブから出る。ボタポタと水滴が流れ落ちる。鏡に映った顔は涙で濡れていた。
− 桜が呼んでる。そういえば夢の中の咲夜胡も桜の木に吸い込まれていった。桜が呼んでいる…。か…。
ひかりは側にあったバスタオルを首からかけ、鏡を見つめる。そこには自分と同じ顔を持つあかりが目の前にいる。そんな気さえしてくる。
あかりの心は助けを求めている。ひかりはそう確信した。
「離れの桜…。始まりの桜。 春夏秋冬…。季節はめぐる。」
『自分の信じた道を進んで。』
母の言葉だ。
− 誰も助けることができなかった。でも今は違う。私にできることがきっとある。
ひかりは用意された白のワンピースに袖を通し髪を乾かす。泊まりになるとは思っていなかったので、しっかりメイクはできない。化粧直し用のポーチからアイブローとアイライナー、そしてリップとチークを取り出す。
これだけあればなんとかなる。
ひかりは準備を整え部屋をでた。
悟はまだ寝ているかもしれない。携帯の着信音も眠りを妨げる。ひかりは敢えてアナログのメモを残すことにして、そっとドアの下からメモを差し入れた。
『小夜お祖母様のところに行ってきます。後で客間で会いましょう。』
悟の部屋からは物音も聞こえない。きっとまだ眠っているのだろう。
ひかりはゆっくりと階段を降りていった。
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