酒は飲んでも呑まれるな

 その後、裏通りの寂れた居酒屋。

 呼ばれてやってきたシロは、その光景に唖然とした。


「なに、これ?」


「おーいシロちゃん」


 しみったれた古臭い店内では、チェシャ猫がテーブルに突っ伏し、深月が座布団を枕にして座敷で丸くなって、シロを手招きしている。

 シロは彼らの座席にお邪魔して、早速状況を確認した。


「えーっと……レイシーは駆除できたんだっけ?」


「うん。でももう無理、怖すぎる。もう合コンできない」


 深月は膝を抱いて震えた。人の死体のようなレイシーに、突然腕を掴まれ、ブラックホールのような闇に引きずり込まれたのだ。まだ、あの一瞬の恐怖から立ち直れていない。


「しかも俺以外のメンバーみんな、別の店に行っちゃったから、チェシャ猫に一杯付き合わせてる」


「で、チェシャくんが潰れちゃったから、僕を呼んだと」


 シロはテーブルにあった焼き鳥の串を手に取った。


 チェシャ猫は、飲み屋街を散策しているうちに、深月を発見した。そして深月が路地を覗き込んだのを見て、彼が狙われていると直感した。

 深月の襟首を捕まえ、彼を助けてから、倒れる男の姿をしたレイシーに弾丸をぶち込んだ。


 助けられた深月は、その場で腰を抜かした。深月と仲良くなっていた女性が心配そうに顔を向けたので、チェシャ猫は拳銃をホルスターにしまい、テキトーに言い訳を考えた。


「どうも、こいつの知り合いです。こいつ、吐きそうって言ってる。あとはこっちでなんとかしとく」


 そして現在、改めて入り直した居酒屋。チェシャ猫は先程からひと言も発さず、テーブルにうつ伏せになっている。彼の手元には、飲みかけのハイボールが鎮座していた。深月はまだ、心に深い傷を負っている。


「怖かった……怖かった上に、なんか不名誉なレッテル貼られた……吐いてないよ俺。ああもう、女の子たち絶対引いた。もう会ってもらえない」


 焼き鳥からタレの香ばしい匂いがする。シロは串から焼き鳥を外しつつ、言った。


「深月くん、お店変えたって言ってなかった? 結局このエリアで飲んでたの?」


「キャンセルできなかったんだよ。でも飲み会は他にも行われてるし、俺のところが狙われる可能性は低いかなと……」


「それなのに狙われたんだ。でも君じゃなければ他の誰かが狙われてたんだし、そう思ったらラッキーだったね。よかったよ、チェシャくんが巡回中で。もも肉いる?」


 シロは焼き鳥を挟んだ箸を、深月の顔に近づけた。横たわる深月は、焼き鳥を見るなり上体を起こし、ぱくりと口に入れる。


「助けてもらったから、チェシャ猫に一杯奢ってやることにしたんだけど、こいつすぐ寝ちゃうのな。合コン、来なくて正解だったかもな」


 深月は皿の上の焼き鳥をもうひとつ、箸で取った。シロは、ね、と同意しつつ、チェシャ猫の上着の中に手を入れる。


「怖いから拳銃、預かっておこう」


 拳銃を抜いて、シロは改めて、チェシャ猫の黒髪に目を落とした。


「深月くん、狩人に助けられるの、二回目だよね」


「そう。ほんと、すげえよこいつら。あんな不気味なものに、立ち向かってるんだもんな」


 深月が素直に褒めると、自分のことのようにシロがにやりとした。


「でしょー。狩人はかっこいいんだよ」


 それから懐かしそうに、虚空を仰ぐ。


「僕ね。昔、叔父がレイシーと戦いに行っちゃうのが怖かったんだ。このまま帰ってこなかったらどうしよう、って、毎回。僕のせいで悪い結果が引き寄せられて、僕のせいで、叔父になにかあったら……って」


 根暗なシロはレイシーに好かれるが、レイシーが直接襲うのはシロではない。彼が大切に思う人だ。

 自分のせいで、他人を不幸にしてしまう。その罪悪感で深く落ち込むシロの、負の感情を煽るため。レイシーは彼を傷つけるために、彼自身ではなくて周辺を攻撃する。

 これはシロが周りの人を多く失った原因であり、シロの心の傷だ。自分がレイシーに関われば、他人が不幸になる。それを恐れたシロは、狩人でありながら、レイシーに近づくのをやめた。

 深月に話しているのか、寝ているチェシャ猫に語りかけているのか、ひとり言なのか。曖昧な口調で、シロは続けた。


「だから本当は、チェシャくんを送り出すのも、怖いんだ。僕が巻き込んでしまっただけで、本当は、なにも知らずに生きていけるはずの子だったのに。こんな危険な目に遭わせて……」


 と、その途端、眠っていたチェシャ猫ががばっと顔を上げた。


「舐めんな」


「あ、起きた」


「勝手にかわいそうがるな。化け物より俺の方が強い」


 堂々と言い放ってから、チェシャ猫はうとうとと目を閉じた。シロはこくこくと頷く。


「そうだね。チェシャくんの方が強いね。なぜなら君は、万全を期してかかるから」


「そうだ。それに俺が勝てば金が貰える。金があれば、巡が……」


 目を閉じたまま喋って、チェシャ猫はまた、ぱたんと突っ伏した。深月は黙って焼き鳥を口に運ぶ。シロはテーブルの上に、組んだ腕を置いた。


「威勢がいいね。でもそっか。君も、その覚悟で僕についてきてくれたんだもんね。僕も君を信じてるから、任せられるんだよ」


 シロはひとつ深呼吸をして、ぽんと、チェシャ猫の腕を叩いた。


「君じゃなかったら、こんなの任せないんだからね」


「重てえ」


 顔を伏せたまま、チェシャ猫がもごもごとうわ言を言う。そしてそのうち、寝息を立てはじめた。シロがくるりと、深月に向き直る。


「さらに愛莉ちゃんが来てから、理由もなく不安になる日が、少なくなったんだよね」


「あの子がいると、なんかいろいろどうでもよくなるよな」


 深月があっけらかんと同意する。シロは楽しげに笑って、頷いた。


「愛莉ちゃんの明るさが僕を引っ張ってくれて、チェシャくんの仕事に対する確実性が僕を安心させてくれるのかな」


「本当、いい奴らに出会ったな。シロちゃんも、すっかり変わった」


 深月はしんみりと噛み締めた。出会った頃のシロはもっと臆病で、人と親しくなるのを拒んでいた。大切な人ができるたびに、失う不安に襲われるのだ。だから素っ気ない態度を取って、他人を突き放していた。

 シロも箸で焼き鳥を掴み、口に入れた。


「そう? 僕も少しは大人になれたのかな。でも、相変わらず臆病者だよ。チェシャくんも愛莉ちゃんも、僕のせいで不幸な目に遭わせてしまうかもしれない。だから距離を取りたいと思いつつも、でも、大事だから離れたくなくて。困ったな」


「チェシャ猫も愛莉ちゃんも、シロちゃんが距離取ろうとしても、ついてきそうじゃねえか」


 深月がもそっと、口を開いた。


「なんか知らんけど、ふたりとも無敵じゃん。一旦地獄に落ちようと、自力で帰ってきそうというか」


「ははっ、そうかも」


 シロが噴き出す。


「そうだね。僕はふたりのそういうところを、こんなに信頼してるんだもん」


「俺は勘弁だからな。もう二度とレイシーに関わりたくない」


 深月はそう付け足して、焼き鳥を頬張った。

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