窮兎、蛾を噛む
その翌日。『和心茶房ありす』では、シロがレイシー駆除の事後申請書類をしたためていた。
窓際のテーブル席には、休業が明けたチェシャ猫が和紅茶を飲んでいる。そんな彼の向かいには、愛莉が腰掛けていた。
「すごかったんだよー! シロちゃん、すっごくかっこよかったの!」
チェシャ猫が休業中に散歩と称して地道に調査していた蛾の女は、チェシャ猫が不在の内に、シロによって駆除された。興奮気味に語る愛莉とは裏腹に、チェシャ猫は冷めた態度でシロに目をやった。
「すまんなシロさん。俺が巡のところへ行っていたばかりに」
「ううん、本来僕がやるはずの仕事を君に投げてただけで、むしろこれ、僕の仕事のはずだから」
シロがしれっと答える。
レイシーを寄せ付けてしまうから狩人の仕事をしていなかったというだけで、シロも狩人である。だから彼も、使わないだけで拳銃を所持していた。特にチェシャ猫不在時は、いざというときのために携帯して出かけている。
「僕がレイシーを追えば他のレイシーに目をつけられるって、叔父に言われ続けてたけどさ。駆除の一回や二回なら大丈夫でしょ」
チェシャ猫が休業中に駆除するのならシロの名義を借りよう、などと話していた彼らだったが、本当にシロが駆除したのだから、嘘偽りなくシロの功績である。
蛾の女が灰になったあとも、現場は騒然としていた。巨大な蛾の出現と、そしてそれが突然消えたという怪事件である。混乱で交通事故も起きていた。
シロと愛莉も通行人に目撃されてはいたが、店へ逃げ込んで事なきを得た。役所や警察にも連絡が行っているので、捜されたりもせず落ち着いている。
書類を書いていたシロは、ペンを止めてチェシャ猫に言った。
「おいしいとこ取りしちゃってごめんね。調査してたのはチェシャくんなのに」
「賞金、俺にも貰えるならどっちでもいい」
「もちろんだよ。いつもどおり、借金の返済で一部回収させてもらうけど」
「……まあいい。休業手当で潤ってる。この二週間の生活費もテキトーに引いてくれ」
言ってから、チェシャ猫は和紅茶を飲み干した。そしてちらりと、愛莉に目をやる。
「おい、あんた。日曜日、暇か?」
「なに? デートのお誘い?」
「なわけねえだろ。巡に会ってほしい」
それを受けて、愛莉はぱっと目を見開き、シロはやや、顔を強張らせた。愛莉はこくこくと頷く。
「絶対空けとく!」
冷ややかながら自分から誘うチェシャ猫と、嬉しそうな愛莉、その両方にシロは、数秒、言葉を呑んだ。それから再びペンを動かす。
「愛莉ちゃんが来てくれたら、巡ちゃん、喜ぶよ」
やがてシロは、ペンを置いた。
「よし、書けた。チェシャくん、暇だったらこれ、役所に持っていってくれない?」
書類をひらひらさせて、シロがチェシャ猫を呼ぶ。チェシャ猫は立ち上がり、書類を受け取った。相変わらず扉の鈴を鳴らさずに店を出ていく彼を、愛莉が追いかける。
「あたしも行こーっと」
「なんでだよ。ついてくんな」
「あたしも暇だから」
外へ出て、若葉色の並木の下をふたりで歩く。風の音がさわさわと心地よくて、愛莉は目を瞑った。
日の当たる坂道を歩いている途中、愛莉のスカートのポケットで、携帯が振動した。見ると、双子の遠井兄弟の兄の方、辰武からメッセージが来ている。
共に『和心茶房ありす』へ行って以来、絵里香と禎輔やそれぞれの友達を交えて遊んでいたおかげで、連絡先を交換していた。とはいえ、このところ愛莉と絵里香がギクシャクしている影響で、絵里香伝いに知り合った遠井兄弟とは、少し疎遠になりつつあった。
愛莉は歩く速度を緩め、徐々に立ち止まり、辰武から届いたメッセージを開いた。
『愛莉ちゃん、絵里香さんと禎輔が別れたって、聞いてる?』
「えっ! なにそれ、聞いてない」
驚いた愛莉は、声に出して反応した。愛莉が返信を打つ前に、辰武の吹き出しが増える。
『俺はさっき知った。いつから別れてたのかも、別れた理由も、全然分からない。愛莉ちゃん、なにか聞いてる?』
なにも知らない。愛莉は最近、絵里香と話せていないのだ。
でも、心当たりはある。
「獅子角神社……」
参拝したカップルは絶対に別れる、という、噂の神社である。深月によればこれはレイシーの攻撃だという。
絵里香は禎輔と、この神社へ出かけている。ふたりが破局したのは、やはりレイシーのせいなのか。
あれだけ幸せそうだった絵里香は、どうなってしまうのか。
愛莉は返信を打つ前に、はたと顔を上げた。数メートル向こうで、チェシャ猫が足を止めている。ポケットに手を突っ込んで、顔だけ愛莉の方を振り向いていた。愛莉は思わず、にんまりした。
「ついてくんなって言ってたくせに、待っててくれてる!」
「待ってるわけじゃない。『獅子角神社』と聞こえたから、止まっただけだ」
「そういうとこ好き。残念ながら、お仕事に役立つ情報じゃないよー」
愛莉は辰武に短い返事を打ってから、チェシャ猫へと駆け寄った。絵里香にもあとで連絡を入れてみようか、無視されてしまうだろうけれど、話しかけてみようか。そんなことを考えながら、チェシャ猫の背中に向かっていく。
チェシャ猫は愛莉が追いつく前に歩き出していた。愛莉はより駆け足になって、チェシャ猫の腕に飛びつく。
「ねえチェシャくん。シロちゃんとの共同生活、終わっちゃったね」
「ようやく帰れる。もう二度と大怪我しない」
辟易した様子のチェシャ猫に、愛莉はいたずらっぽく笑む。
「お世話になったくせに。なにが嫌なの? あ、もしかして寝起きのシロちゃんめちゃめちゃ機嫌悪いとか!?」
「それは自然に直るから別にいいけど」
「本当に機嫌悪いんだ。でも多少問題あったって、快適そうなのになあ。シロちゃんの作るごはん、おいしそうだし」
愛莉は無邪気に言って、昨日のシロの買い物袋を思い出した。
「そういえば昨日、シロちゃんいっぱいおかず作ってたでしょ! どうだった? 食べ切れた?」
「あー……」
春風が吹いて、チェシャ猫の前髪を揺らす。流れた髪で目が隠れて、愛莉からは表情を読めなかった。
「やっぱり、甘やかされるのは慣れない。あの人がただの世話好きだと知ってても、どこまで応えていいのか、限度が分からない」
それから陰った顔が、少し俯く。
「お互い様か。あの人も、限度分かってねえし」
「……ふーん?」
愛莉は横からチェシャ猫を見上げて、首を傾げた。チェシャ猫の言葉の真意を考えてみたが、結局分からなくて、別の質問をする。
「なに食べたのー?」
「どうでもいいだろ」
その後ふたりは、役所で深月から、区長が辞任の意向を示していると聞いた。なんでもポイソンの秘密の漏洩に限らず、書類改竄や秘書へのパワハラといった余罪が発覚し、近いうちに報道されるというのだ。
「やっぱ人間じゃねえな。試しに足でもぶち抜いてみるか? 灰を噴くかもしんねえぞ」
チェシャ猫が毒づくと、深月は項垂れた。
「やるならしっかりトドメまで刺せ」
横にいた愛莉は、役所じゅうのピリついた空気を全身に浴びて、「大人になったらちゃんと選挙に行こう」などと考えていた。
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