鏡の条件
翌日の昼休み、愛莉のクラスの友達が、鞄から出したそれを自慢していた。
「じゃーん! 見てみて、限定缶ミラー! ギリギリで買えたの」
彼女のお気に入りのキャラクターがプリントされた、缶ミラーである。集まっていたクラスメイトたちが、わっと盛り上がる。
「かわいー! 限定カラーって個数限定だったんだよね? よく買えたよ」
「私もそういうの欲しいなあ。缶ミラーにしようか、蓋付きにしようか、迷ってる」
「私のはこれ。こっちが拡大鏡になってるやつー」
互いの鏡を見せ合い、交換している。愛莉もその輪の中で、ポケットの中の鏡を出そうとした。
「あたしのは……あれ?」
ポケットに入れたはずの鏡がない。羽鳥に貰った鏡は、いつも持ち歩いていたはずだ。
それからハッと、午前中の時間割を思い出した。
「あ! 体育で着替えるとき、ポケットから落ちそうになってロッカーの奥に置いたんだった」
そのまま忘れて教室に戻ってきてしまった。鏡は今も、更衣室に置きっぱなしだ。愛莉は慌てて、教室を飛び出した。
「取りに行ってくるー!」
「急げ急げー! もう次の授業始まるよ」
友人たちに見送られ、愛莉は体育館の更衣室へと走った。体育館へと辿り着くと、すでにちらほらと、午後いちばんで体育館を使うクラスの生徒がやってきていた。更衣室の戸は開いている。午後に使う生徒が押し寄せてくる前にと、愛莉は勢いよく転がり込んだ。
そして、そこにいたひとりの生徒と、目が合った。
「絵里香……」
ロッカーの前に佇む、絵里香がいる。彼女は愛莉を見て息を呑むと、目を逸らした。そして愛莉の方へと、つかつか歩いてくる。
「絵里香、あのね」
愛莉が咄嗟に声をかけるも、絵里香は愛莉の横を通り抜け、更衣室を出ていってしまった。
ぽつねんと残された愛莉は、しばらく、絵里香が消えた戸を見つめていた。もう、謝るチャンスすらない。胸がずきずきする。
愛莉は数秒項垂れていたが、すぐに顔を上げた。同じ学校にいる限り、また話すチャンスは巡ってくるはずだ。気を取り直して、置き忘れた鏡を取りにロッカーを覗く。
自分が使っていた場所をさっとは思い出せなかったが、鏡はあっさり見つかった。絵里香が佇んでいた傍のロッカーだ。
絵里香はこれを見つけて、立ち止まっていたのだろう。愛莉の物だと知っている絵里香は、これを愛莉に届けようとしたのか、そして話すきっかけにしようとしたのか。なんとなくそんな気がして、愛莉はまた、複雑な気持ちになった。
そしてふと、壁際に置かれた姿見に目を留める。鏡に映った左右反転の愛莉自身が、同じようにこちらを見ている。
数秒前、絵里香と目が合ったとき、久しぶりに絵里香を真正面から見た気がした。
「……あんな顔だったかな」
なんとなく、嫌な予感がする。言語化できないもやもやに、胸がざわつく。しかしぼうっと立っているうちに他の生徒の声が聞こえてきて、さらに昼休みが終わる予鈴も響いてきた。
愛莉は鏡をスカートのポケットに押し込み、教室に向かって全速力で駆け出した。
*
その日の帰り、愛莉は真っ直ぐ、シロの店へ向かった。なんの根拠もないけれど、この胸騒ぎは気のせいではない。杞憂なら杞憂でいい。とにかく、チェシャ猫とシロに相談しなくてはならないと思った。
だというのに、店には「CLOSE」の札がかかっている。
「あれー!? あ、今日、定休日!」
曜日を思い出して、愛莉は打ちひしがれた。しかし絵里香が気になって仕方ない愛莉は、いてもたってもいられなかった。チェシャ猫とシロの連絡それぞれに、同じメッセージを入れる。
『今日会える? 相談したいことがあるの』
チェシャ猫からは反応がないが、シロはすぐに返事をしてきた。
『なあに? シフトの変更かな?』
バイト先の店長としての対応をしてくる彼に、愛莉はすがりつくように続きを入力する。友達がジャバウォックかもしれない――そう打とうとして、指を止めた。
やはり、勘違いかもしれない。自分の思いどおりにならない絵里香が、まるで人が変わってしまったように感じる。変わってしまった絵里香を受け入れられなくて、ジャバウォックのせいにしたいだけではないか。
ジャバウォックなら、姿形が本人の左右反転になる。更衣室で顔を合わせた絵里香はどうだっただろうか。しかし、思い出そうとすると余計に分からなくなる。クラスが変わってから顔を合わせる頻度が減って、しかもこの頃は、ちゃんと向き合っていないどころか、話すらしていない。
変に冷静になった愛莉は、思い直した。ジャバウォックを見つけたかも、と早計に騒ぐより、まずはシロからジャバウォックの特徴を聞いて、擦り合わせてみようと考える。
『ジャバウォックのこと、教えてほしいの』
それだけ打って、送信する。首を突っ込まないようにやんわり窘められるかもしれない、とあとから思ったりもしたが、シロは快く応じた。
『急いでるのかな。今、どこにいる? 僕は店の近くの噴水公園の辺りにいるよ』
愛莉がなにか見つけたのかとまで、察したのだろう。愛莉はほっと胸を撫で下ろし、返事をした。
『シロちゃんのお店の前にいるよ。公園の方に向かうから、そこにいてね』
それから携帯をポケットに入れ、愛莉はシロの待つ公園へと走り出した。
公園に着いてすぐ、買い物袋を提げたシロが愛莉を見つけ、駆け寄ってきた。パンパンに膨れた買い物袋を見て、愛莉は頭の中の相談事が吹っ飛んだ。
「すごくいっぱい買ったね。今晩のお夕飯、パーティでもするの?」
「チェシャくん、夕飯なにがいいか聞いたら『なんでもいい』って言うんだよ。『なんでもいい』がいちばん困るのに。だから候補を全部作ってやろうと思って」
所帯染みた悩みを口にするシロに、愛莉はつい、噴き出した。
「『なんでもいい』って多分、『どうでもいい』じゃなくて『なにであっても最高だから選べない』って意味だよね。シロちゃんのお料理、おいしいから」
「ははは、だといいけど」
「あ! そうだった、チェシャくんにも連絡してたんだった。来てくれるかな」
愛莉はチェシャ猫に、シロと同じメッセージを送っていたのを思い出す。それにはシロが首を横に振る。
「チェシャくんは病院だから、携帯の電源切ってるかも。あ、彼の怪我の方じゃなくて、巡ちゃんの方ね。怪我はもうほぼ完治。明日から復帰」
「今日でチェシャくん、休業期間がおしまいかあ。シロちゃんちに連泊するのも最終日なんだね」
「そうそう。最後の日はお夕飯を豪華にしないとね。ついでにあいつが家に帰ってもしばらく食い繋げるように、作り置きおかずを持たせてやろうと思って……って、違う違う、そんな話をしに来たんじゃない」
本来の用事を思い出したシロが、雑談を切り上げた。
「ジャバウォック、なにか気になることでもあったの?」
「えっと、なんか新しく分かったこと、あるかなって。もしかしたら学校で見つけるかもしれないし、それっぽい噂を聞くかもしれないし。あたしも鏡を持ち歩いてるから、寄ってくるかもしれないし」
これでシロからジャバウォックについて教えてもらい、絵里香の様子と一致するものがあれば、絵里香の件を相談するのだ。漠然とした問いかけに、シロは宙を仰いだ。
「そうだな、ジャバウォックについての情報は更新されてはいるけど、あくまで仮説と考察ばかりなんだよね……。あ、そうだ、これは羽鳥くんの話を聞いて、僕が考えた仮説なんだけど」
「うん」
愛莉は身構えて聞く。シロは数日前、羽鳥が愛莉に話していた内容を振り返った。
「これまでのジャバウォック被害者たちは、お気に入りの一枚の鏡を持ってる人が多かった。そうでない人もいたけど、単身者が多い。つまりそれって、『自分の鏡』を持ってる人、なんじゃないかな」
「自分の……?」
「ほら、家にある鏡は家族が共用で使うもので、公共の場にある鏡はみんなで使うものでしょ。お店に売ってる鏡は、まだ誰のものでもない。所有の権利自体はどこかしらにあっても、誰かひとりの個人が『自分の』として持ってるものではない」
シロに言われて、愛莉はハッとした。
「それに対して、被害者に遭ってる人たちの鏡は自分用に持ち歩いてるもの……単身者は、家にある鏡が家族で使ってる鏡じゃなくて、その人が自分だけで使うもの……」
愛莉はこれまで、ひとつの鏡を姉と共有して使っていた。これは持ち主がふたりいる鏡だ。だが愛莉のポケットに入っているコンパクトミラーは、持ち主が愛莉だけの鏡である。
「まだ仮説の域を出ないけど、そう考えると辻褄が合うんだ。ジャバウォックは『鏡の持ち主』に化ける。だから持ち主はひとりじゃないといけないのかなって」
それからシロは、愛莉に向けてすっと手を差し出した。
「愛莉ちゃん、鏡を持ってたよね。僕に貸してくれる?」
シロに急に促され、愛莉は制服のポケットに入れていた鏡を取り出し、シロに渡した。シロはそれを受け取り、続ける。
「もしも僕がレイシーだったら、このやりとりで、この鏡に取り憑けるようになる」
「どういうこと?」
「人間の個人の持ち物は、持ち主による結界がある状態で、レイシーは入り込めないっていう通例があるんだ。ジャバウォックはまさに、物……鏡に取り憑くレイシーだよね。だから本来であれば、持ち主がはっきりしてる鏡には入れないはずなんだよ。だけどこんなふうに、持ち主が直に手渡していれば、レイシーは主に許されたということになる」
それを聞いて愛莉は、学校での友達とのやりとりを思い出した。なにげない会話の中で、お互いの鏡を見せ合った。愛莉自身も、絵里香と互いのものを交換していた。
住居などの生活空間も結界になるが、部屋の主が招き入れればレイシーは中に入れるようになる。被害に遭った単身者は、知人に化けたジャバウォックをジャバウォックと気づかずに上げて、家の鏡に入られた、と考えられるのだ。
シロが鏡を愛莉に返す。
「この仮説が正しければ、防衛策が取れる。ジャバウォックらしき人に……ううん、とにかく誰にも、自分の鏡を渡さないことだ」
返された愛莉はしばし鏡を両手で持って、黙っていた。それならハッとして、鏡を胸に押し付ける。
「今、まさに渡しちゃった! シロちゃんは本物のシロちゃんだよね!?」
「あはは、本物だよ。万が一僕がジャバウォックだったとしても、蓋を開けてないから鏡の部分を見てないよ」
「そっか、よかった」
優しく笑うシロに安心して、愛莉は鏡をポケットに戻す。それから改めて、絵里香を思い浮かべた。
絵里香も、鏡を持ち歩いていた。雑誌の付録だと話していた、ブランドロゴの入った鏡だ。
新しいクラスの新しい友達との会話の種に、自分の持ち物を人に渡したかもしれない。或いは、目にゴミが入ったとか、コンタクトレンズがずれたと言う人に、貸したかもしれない。他人から「貸して」と言われて鏡を貸すシーンは、いくつか想像できた。
愛莉は再び、シロの顔を見上げた。やはり、絵里香のことを相談してみようか。ジャバウォック云々を抜きにしても、仲直りの方法を、シロにアドバイスしてもらえないだろうか。
「シロちゃん、あのね……」
と、話しはじめたときだった。
「うわああ! なんだあれ!」
公園の外の道路から、どよめきが聞こえた。シロと愛莉はそちらを振り向き、そして声を呑んだ。
数十メートル先から、巨大な蛾が、道路を突っ切ってくる。
おおよそ人間の体躯ほどもあるであろうそれは、地面から車一台分浮いた程度の低空飛行で、路上の車の上を浚うように飛んでいる。
その毒々しい姿に、愛莉は肩を強張らせた。
「あれって、チェシャくんが見つけたレイシー!?」
青くなる愛莉の横では、シロが微笑みを消し去った険しい顔で、突進してくる蛾を睨んでいた。
「大人しくしてるから油断してた」
蛾の飛んでいく方向には、繁華街がある。シロは小声で「まずいな」とぼやいた。
目立つ姿を晒して人間に攻撃されようと、それでも人の多い場所へ特攻し、混乱させ、人を喰う。レイシーはそんな強硬作戦を取ったのだ。
蛾がこちらへ進行してくる。シロは蛾を見つめたまま、買い物袋を愛莉に突き出した。
「これ、お願い」
「へ?」
言われるままに、愛莉は買い物袋を掴んだ。直後、シロは道路に向かって駆け出していき、そして向かってくる蛾とほぼ垂直に対峙した。
シロが上着の中に手を突っ込み、引き抜く。その手に握られていたものを見て、愛莉は目を剥いた。
シロが両手で構えていたそれは、チェシャ猫が持っているのと似た、拳銃だった。
蛾はシロに見向きもせずに繁華街へと向かっていく。その後ろ姿に銃口を突き出し、シロは迷わず引き金を引いた。
どぱっと、蛾の翅から灰が噴き出した。羽ばたけなくなった蛾がよろめくと、追撃の銃弾が蛾の背中を貫く。灰がさらに溢れ出して、傍の車に降りかかる。
呆然としていた愛莉だったが、今度は自分がそちらに駆け出してシロの脇を横切った。飛び散る灰の傍へと踏み出し、降り注ぐ灰に向かって手を伸ばす。すると灰は愛莉を避けるかのように弾け、消えていった。
周囲がざわざわしている。突然現れた巨大な蛾、それが灰になって、今度は消えたのだ。通行人たちが怯えるのを横目に、シロは素早く拳銃をしまい、愛莉の手を取った。
「逃げるよ」
「うん!」
なんだか楽しくなってきていた愛莉は、満面の笑顔で頷いた。
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