色恋沙汰は恐ろしい

 それから三日後。チェシャ猫の休業期間は、いよいよ終盤に差し掛かっていた。

 シロの店を訪れた愛莉は、カウンター席にいた先客にあっと声を上げた。


「深月さん! 最近よく会うね」


「おー、愛莉ちゃん。学校帰り? お疲れ様」


 にこやかに笑うのは、スーツ姿の深月である。彼の前には食べかけのさくらんぼパフェが置かれていた。愛莉は店の中を見回し、唇を尖らせた。


「今日はチェシャくんいない」


 それを受けて、シロが微笑む。


「散歩に出かけてるんじゃないかな。夕飯の材料のお使いを頼んだから、そのついでに」


 すると甘やかしスマイルを愛莉に見せた深月が、くるりと、シロに向き直った。

 

「で、そのきな臭い『散歩』とやらはなんなんだ。虫に化けるレイシーの前例資料を請求したのはなぜだ? チェシャ猫は謹慎中のはずだよな? なにを調べてる?」


「進んで調べてるんじゃないよ。散歩してるだけだよ。資料の請求は僕名義。僕がちょっと虫について気になっただけ。まさか休業中のチェシャくんがレイシーを追いかけてるわけがないじゃないか。あと、謹慎じゃなくて療養ね」


 素早く言い逃れを切り返し、シロは深月のパフェにさくらんぼを追加した。賄賂である。深月は難しい顔で、真っ赤なさくらんぼを見つめ、やがて深くため息をつく。


「ったくもう……なんでお前らはそう、ルールの穴をくぐるような真似をするんだ」


 彼らの様子を見て、愛莉はなんとなく事情を察した。どうやらチェシャ猫が仕事をしてはいけない期間に仕事をして、シロも加担しており、深月に叱られているようだ。

 ルール違反をしたのだから叱られて当然だが、愛莉はうーんと唸って、深月の隣の椅子に腰を下ろした。


「でもー、深月さんとこの区長さんが情報漏洩なんかやらかしちゃったから、チェシャくん、のんびり休めなくなっちゃったんじゃないかな?」


 チェシャ猫とシロを庇いたいのでもなく、役所を責めようとしたのでもなく、素直にそう感じているのだ。直球にして純粋な言葉に、深月がうっと呻く。愛莉はきょとんとした顔で追撃した。


「これ以上たくさんのレイシーにポイソンの秘密が広まらないように、一刻も早く、一匹でも多く、駆除したいんじゃないかなあ」


「そうだそうだ! いいぞ愛莉ちゃん。もっと言ってやれ」


 シロが手を拡声器代わりにして愛莉を応援する。愛莉は引き続き、素の「市民の声」を口にした。


「あたし早く選挙権欲しい。今の区長さんみたいな人、選ばない」


「はいはい! うちの親玉がすみませんでした!」


 ついに深月は、座ったまま深々と頭を下げた。ついでにシロも謝る。


「僕ら有権者がすみませんでした」


「チェシャくんとシロちゃんも、休業手当貰いながら仕事するのはルール違反だよ」


 愛莉に叱られ、シロはさらに深く頭を垂れた。


「ごもっともです」


 ふたりを横目に、深月が顔を上げてカウンターテーブルに肘をついた。


「そうそう、区長がクズだったのは認めるけど、それとこれとは別だからな。まあ、今回はチェシャ猫の行動はただの散歩、資料の請求はシロちゃん名義の単なる好奇心ってことで大目に見てやる」


 それから彼は、パフェグラスの中の残り少ないパフェを、スプーンにかき集める。


「休業明け最初の仕事は、それになりそうだな。快気祝いに、特大猫ジャラジをプレゼントしようと思ってたんだけど」


 含みのある言い回しをする深月に、シロの笑顔が強張った。


「どんな仕事?」


「本来はこの管轄じゃないんだけど、受け持ってた狩人がお手上げ状態で、近隣の狩人に救援要請を出してる」


 前置きだけでも、不穏な気配が漂っている。シロも愛莉も、緊張気味に聞く。深月はさくらんぼの載ったスプーンを、口に運んだ。


「とある縁結びの神社が、縁切り神社と化してるらしくてな」


「あ! 獅子角神社!?」


 愛莉がすぐさま反応すると、深月はこくっと頷いた。


「まさにこういう、若い子の間でまことしやかに語られてるみたいだな。愛莉ちゃんも知ってたか」


「うん、最近知ったばかりだけどね。これって単なる噂じゃなくて、レイシーのせいなの?」


「どうやらそうみたいだ。カップルが付き合っちゃ別れちゃするのなんて珍しい話じゃないんだから、神社関係ねえだろと思うじゃん? でも流石に続きすぎてるから、その区域の狩人が調査に入った」


 調査した狩人によると、実際に神社に行ってみると耳鳴りがしたという。環境音を計測したところ、奇妙な超音波が混じっているのを見つけた。しかし音波の出処の特定に苦戦しており、他の狩人に協力を仰いでいるのだという。


「現状は単に、ここでデートしたカップルは別れるっていう噂が立つ程度でしかない。でもその『別れのストレス』を餌にレイシーが成長すれば、いずれもっと大きな問題を引き起こす」


 深月がスプーンの先を浮かせて、愛莉に語る。


「愛憎がこじれると怖いぞ。人がとんでもないことしでかす動機になる。失恋を理由に死ぬ人はいるし、嫉妬を理由に殺人が起こる。結婚や恋愛をトリガーに人生を棒に振る奴は、案外たくさんいるからな」


「深月さんが言うと説得力が違うね。そういう話で人の恨みいっぱい買ってそう!」


「伊達に修羅場をくぐり抜けてないぜ。それはさておき、神社のレイシーはくだらねえように見えて結構ヤバい。あと単純に、縁起の悪い噂で風評被害を受ける神社側が気の毒」


 深月はそう言ってから、パフェの最後のひと匙を口に運んだ。立ち上がって店を出る支度をしつつ、シロに顔を向ける。


「正式に救援要請が入ったら、また連絡する。それまでにチェシャ猫の体調を万全に整えておくように」


「任せて。たっぷり栄養つけて、怪我する前より元気にしておくよ」


 シロがピースサインをする。店を出ていく深月を見送ったあと、愛莉はほへ、と間抜けな声を出した。


「すごいねー、チェシャくん。深月さん、最後まで気づかなかったよ」


「えっ? ……え!?」


 愛莉の感嘆を聞いて、シロは奥のテーブル席を振り返った。いつの間にか来店していたチェシャ猫が、頬杖をついてこちらを観察している。愛莉が椅子を立ち、チェシャ猫の方へ駆け寄った。


「あたしは気づいたよ! 神社の名前が出たくらいから来たよね」


「縁結びが縁切りになったっつう話な。調査中の狩人が救援要請をするほど、厄介な案件なんだな」


 愛莉の言うとおり、そこから入店していたチェシャ猫は、深月の話をきちんと聞いていた。気配に気がつかなかったシロは、チェシャ猫の存在感の薄さにも、それを察知できる愛莉にも、ぞくっとした。

 チェシャ猫が改めて、シロに散歩の成果を報告する。


「あの蛾の女、今のところ人畜無害だ。人の姿のまま、誰ともすれ違わないような場所をうろうろ歩いてるだけだな」


「過去にも似たやつがいたみたいだよ。巨大な虫の姿で、ただ気持ち悪いだけのやつ」


 シロが和紅茶を煮出しつつ、チェシャ猫に資料を手渡した。

 本日シロは、深月から届いた資料に目を通していた。

 前例としては、百年近く前、人の体躯ほどの巨大な蝿がヨーロッパの田舎の農村で確認されている。記録によれば、巨大な蝿は怪我人が出る前に狩人が駆除している。大きすぎて目立つため、蝿の姿で現れた時点で、狩人に瞬殺されたのだ。

 資料にさっと目を通し、チェシャ猫はふうんと呟く。


「今回の蛾の女も、デカくて目立つのを自覚してるのかもな。ずっと人の姿でいるのは、そういう理由か」


 蛾の女は、体の大きさは人間のときのまま、蛾の翅を生やす。そんなものが上空にいれば、下手すれば自衛隊が動くような騒ぎになる。レイシーは、目立つ行為は自分の不利益になると分かっているのだ。

 シロは不安と安堵が混ざった顔で、和紅茶を蒸らす。


「いくら大人しくても、化け物は化け物だからなあ。一見なにもしてないように見えても、通行人からなにか喰ってるかもしれないし」


「もちろん殺す。人間の姿から蛾のフォルムに変わる様を写真に収めた。これを申請書に添付すれば一発で通る。緊急性は低そうだが、休業期間が終わり次第すぐに駆除できるように、準備だけ進めておきたい」


 脚を組み直すチェシャ猫へ、シロが和紅茶を運んできた。


「そうだね。今はもう少し相手を調べよう」


「もし予想外な事態が起きて緊急案件に変わったら、遠慮なく殺る。シロさん名義で駆除すればいい」


「うん、そういう状況だったら役所の方も事情を汲んでくれると思うよ」


 花札の茶托の上に、湯のみが載る。コト、という静かな音を聞いてから、愛莉は言った。


「獅子角神社の話も気になるなあ」


 噂を知らずに縁結びのご利益を求め、カップルたちがデートに来ては、破局させられている。中には噂を知っていても、敢えて訪れるカップルもいる。

 彼らが破局へ導かれるのがレイシーの仕業なのであれば、カップルたちは「別れのストレス」という餌をレイシーに与えてしまっているのだ。


「深月さんが言ってたね。今はカップルが別れちゃうっていう噂が立つだけだけど、この先もっと被害が大きくなるって」


 彼女は、学校で見た絵里香のSNS投稿が気にかかっていた。絵里香も、恋人と禎輔と共に、あの神社へ赴いている。

 チェシャ猫が和紅茶の湯のみを手に取る。


「調査中の狩人がお手上げ状態になるくらい、調査が難航してるというのも気にかかる。事前に散歩しとくか……」


「チェシャくん、本当は大人しくしてなきゃだめなんだからね。怪我は治ってるかもしんないけど、治ったばっかりなんだから」


 愛莉が窘めるも、チェシャ猫は目を逸らすばかりで首を縦には振らなかった。

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