左右反転

 木曜日の夕方、シロの店の中には、シロとチェシャ猫、それと休憩している品のいい主婦三人組がいた。

 主婦たちがお茶とお喋りを楽しんでいる隣のテーブルで、シロがチェシャ猫のネクタイを結ぶ。


「まさかチェシャくんが、自分でネクタイを結べないとはね」


「結べてはいた。形が悪かっただけ」


「あんなの『結べてる』の内に入らないよ。よかったよ、本番の前にここに寄ってくれて」


 珍しくスーツ姿のチェシャ猫に、シロが呆れ目を向ける。チェシャ猫はシロにネクタイを委ねつつ、開き直った。


「考えてみたら親の葬式以来だ、上手くできなくても仕方ない」


「んー、習慣がなければそんなもんか。君、スーツ着るような仕事はしないもんねえ。今日は、ポイソンさんにご挨拶だから着てきただけで」


 彼の首の青いネクタイに指を絡め、シロは手を動かしながら言った。


「会社内の調査時は、基本的にスーツでいるようにって話だったけど……大丈夫?」


 チェシャ猫はこのあと、山根から紹介された仕事の挨拶へ向かう。定刻まで時間を潰そうとシロの店を訪れたところ、不格好なネクタイに驚いたシロに手直しをされている次第である。

 主婦三人組ののんびりとした話し声が、店内を程よく賑やかにしている。きれいに締め直したネクタイを、シロは満足げにぽんと叩いた。


「これでよし。いくら見知った現場に行くといえど、ご挨拶の機会だし、身だしなみはきちんとしなきゃね」


「あんた器用だな。正面からだと、自分で締めるときと向きが逆になるのに」


 感心するチェシャ猫の横の窓辺には、シロが和紙で作った椿の飾りが置かれている。絶妙な塩梅で茶を淹れたり、繊細なスイーツを作ったり、シロはなにかと手先が器用である。


 シロが客の主婦たちに呼ばれ、チェシャ猫の席を離れた。デザートの注文を受け、きれいな所作で頭を下げている。平穏な店内で、チェシャ猫は時計を確認した。出かける時間まで、もうしばらくある。


 そこへ、愛莉が新しい客をふたり連れてやってきた。


「シロちゃーん! 絵里香と遠井くん、来たよー!」


 勢いよく開く扉の上で、鈴が揺れる。入ってくるなり、愛莉は前のめりで加速し、チェシャ猫に飛びついた。


「きゃー! チェシャくんがスーツ着てる! かっこいいー!」


「触るな。皺になる」


 鬱陶しげにあしらうチェシャ猫を横目に、シロがぽつっと毒づく。


「よく言うよ、ネクタイぐちゃぐちゃだったくせに」


 愛莉の出現で、店が一気に騒がしくなった。彼女に続いて入ってきた、制服姿の女子高校生が、店を見回す。


「へえ、ここが愛莉のバイト先ね」


「お邪魔します」


 一緒に入ってきた別の制服の男子高校生が、ぺこりとお辞儀した。

 座席の少ない小さな店である『和心茶房ありす』は、これだけで殆どの椅子が埋まる。主婦グループにデザートを運んでいたシロが、振り返って愛莉たちに微笑む。


「いらっしゃい。はじめまして、絵里香ちゃん、遠井く……」


 途中まで挨拶してから、シロは一旦、言葉を呑んだ。そして改めて、にこっと笑って案内する。


「手前のテーブルかカウンター席、お好きな方へどうぞ!」


 愛莉に引き連れられて入ってきた、ふたりの高校生。片方は愛莉の友人、絵里香である。明るめの髪をお下げにした、派手めな印象の少女だ。愛莉よりも一段多く制服のスカートを折っているようで、まだ肌寒いというのに太腿を晒している。


 隣りにいる絵里香の恋人、遠井は、愛莉の持っている写真のとおりの爽やかな少年だった。身長が高く、制服の上からでも分かるほど筋肉質な体格をしている。右目の下には、特徴的な泣きぼくろ。

 シロが穏やかに会釈する。


「おふたりとも、今日は来てくれてありがとう。僕がここの店主です」


「愛莉から聞いてる。シロちゃんだよね。いつも愛莉がお世話になってまーす」


 絵里香が明るく挨拶して、遠井もはにかむ。

 愛莉は友人たちを差し置いて、チェシャ猫を構っていた。


「チェシャくん、スーツ着てるってことはなんか大事な用事があるの? じゃあ前髪、横に流した方がいいよ。目にかかってるよー」


「うぜえ、触るなと言ってるだろ」


「あたしのヘアピン貸してあげよっか」


 愛莉が真正面に向き合って、チェシャ猫の前髪を触ろうとする。じゃれる愛莉の元へ、絵里香と遠井が歩み寄ってきた。


「この人が噂のチェシャくんか。愛莉のお気に入りの」


 話しかけられ、チェシャ猫は愛莉の手を払い除けつつ、そちらを見上げた。椅子の横に立つ絵里香が、興味深げにチェシャ猫を観察している。絵里香とチェシャ猫が会うのは二度目だが、初対面時はチェシャ猫が横を通っただけである。お互い、顔など覚えていない。

 チェシャ猫はどうも、と無愛想に挨拶してから、絵里香の隣の少年に目を止めた。彼の、右目の下の泣きぼくろ。

 咄嗟に、チェシャ猫の脳裏に、先日のシロと愛莉の会話が蘇った。


『左目側に泣きぼくろがある人って、周りを引っ張るリーダータイプの人なんだそうだよ』


 あの日チェシャ猫は、将棋盤を見ていて愛莉の持っていた画像は見ていない。だが、シロが左目の泣きぼくろの話をしていたのは記憶している。

 数メートル先にいる少年の泣きぼくろは、右側だ。まるで鏡のように、ほくろの位置が反転している。


「ん? あんた……」


 チェシャ猫が遠井に声をかけようとしたとき、愛莉がぱっと、絵里香たちの方を向いた。


「ねえねえ絵里香、遠井くん。なに飲む? おすすめは抹茶ラテだよ」


 チェシャ猫の髪を弄って満足したらしく、愛莉は彼から離れ、空いているテーブルへと駆けていった。

 どうやら彼女は、遠井のほくろの位置に疑問を抱いていない。

 チェシャ猫はちらりと、シロに目配せした。視線に気づいたシロは、人差し指で自身の左目の下を指さして、不思議そうに首を傾げた。彼もまた、チェシャ猫と同じく、ほくろの位置の移動に気がついている。

 とはいえ愛莉は普段どおりだし、絵里香も、ほくろを気にしている素振りを見せない。チェシャ猫とシロは、一旦様子を見ることにした。


「抹茶ラテいいね。あと、お腹すいたから軽食! なににしよっかな」


 絵里香がテーブルに置かれているメニューを眺める。愛莉は軽食メニューを指差して、楽しげに紹介した。


「サンドイッチおいしいよ! あとね、パスタ! シロちゃんのは洋食でも和の隠し味が入るから、なんだか優しい感じの味になるの。それとここに書いてあるサラダもね、季節によって野菜が変わるの。ドレッシングが自家製でねー」


「めちゃプレゼンするじゃん。愛莉、この店すっごく好きなんだね」


 マシンガントークの愛莉に、絵里香が笑う。遠井はというと、そわそわした様子で同じくメニューを見ている。愛莉の勢いに押されているのか、彼は口数が多くなかった。


「遠井くんは? なに食べる?」


 愛莉にメニューを見せられ、遠井は緊張気味にメニューに手を添えた。チェシャ猫の位置から、遠井の手のひらが見える。指の付け根に、マメがある。

 シロがチェシャ猫の元へやってきて、和紅茶を差し出す。


「主張の強い、ちょっと強引な子……って聞いてたんだけど、想像より大人しいね、彼」


 控えめなトーンで、チェシャ猫に話しかける。チェシャ猫はシロをちらっと見上げ、再び遠井に視線を戻した。愛莉が無邪気に遠井に尋ねている。


「ねえねえ、遠井くんって東高の陸上部のエースなんだよね。長距離? 短距離?」


「んっ? 長距離、だよ」


 遠井はやや戸惑いながらも、即答した。愛莉がさらに問いを重ねる。


「ほんとー!? あたし、短距離は得意なんだけど、長距離はあんましでね。持久走大会やだなーってなっちゃうんだけど、楽しめるコツ、ある?」


 そこに絵里香が加わる。


「分かる。持久走大会、中学から毎年サボってるわ」


「ウケる。だから去年も今年も、途中から絵里香いなくなったんだ」


 愛莉がキャッキャと笑い、遠井も釣られるように噴き出した。


「俺も持久走大会、苦手でさ。サボろうとしたら先生に見つかって……」


「えっ?」


 愛莉と絵里香が、同時に目を丸くする。遠井はハッとして、取り繕うように言葉を足した。


「あ、ほら。学校行事と部活とじゃ、勝手が違うから。長距離が苦手って意味じゃないよ」


「ふうん、そういうものなんだ」


 愛莉は不思議そうに首を傾けていたが、細かいことを気にしない性格の彼女は、それ以上は突っ込まなかった。

 シロはまだ、チェシャ猫の横に立って盆を抱いている。チェシャ猫も、和紅茶の湯のみを半端な高さに上げたまま、遠井を観察していた。

 長距離走のエースといっておきながら、学校行事の持久走はサボろうとする。言い訳も曖昧で的を射ていない。

 彼らの視線に気づいたのか、遠井がちらっとチェシャ猫とシロの方を見る。それから怯えたように目を逸らした。

 愛莉がぱっと、シロを振り向く。


「あっ、そうだ! シロちゃん、新作の豆乳プリン、完成した?」


 突然自分に話を振られ、シロはぴくっと背筋を伸ばした。


「うん、できたよ! 硬めととろとろ、二種類ともあるよ」


「じゃああたし、とろとろプリン! あとサンドイッチね」


 愛莉が注文すると、絵里香も続いた。


「あたしも同じのを。プリンは、二種類あるなら硬いのがいい」


「それじゃ、俺も」


 遠井も、絵里香と同じく注文する。


「俺もサンドイッチとプリン。絵里香と同じ、硬い方で!」


「えっ?」


 本日二度目、愛莉と絵里香が同時に声を上げた。チェシャ猫も眉を寄せ、シロも目をぱちくりさせた。遠井だけ、きょとんとしている。


「あれ? 俺、なんか間違えた……?」


 困惑する彼に、愛莉が言う。


「プリン、とろとろ派じゃなかった?」


「あ……あれ? そうだっけ」


 自分の好みの話なのに、遠井は強張った表情で冷や汗を流した。愛莉がうん、と頷く。


「絵里香から聞いてるよ。絵里香もチェシャくんも硬め派で、シロちゃんは中立だから、とろとろ派の仲間の遠井くんに親近感覚えてたのに。遠井くんも硬め派だと、あたし、囲まれちゃうんだけど」


「そ……それは、絵里香と過ごすうちに、好みが変わって……」


 またもや、遠井がしどろもどろに言い訳をする。絵里香が怪訝な顔をなる。


「この前、『とろとろ以外認めない』ってあんなに強情だったじゃん」


「えっと、えっと……」


 遠井が目を白黒させる。シロがチェシャ猫の隣で薄く微笑み、それでいてやや緊張した目で、遠井を眺めている。チェシャ猫の元から鋭い目つきが、より険しくなる。いつの間にか、主婦三人組もお喋りをやめて愛莉たちのテーブルを注視していた。

 愛莉がうーんと唸る。


「なんか、遠井くんって、思ってたキャラと違うね。もっとぐいぐい来る人だって聞いてたんだけど、それよりずっと柔らかい印象というか……」


 それから彼女は、思い出したように付け足した。


「そうそう、シロちゃんに教えてもらったんだけど、泣きぼくろが左側にある人はリーダータイプなんだって。それで、右側の人は……あれ?」


 途中まで言って、愛莉は遠井の顔をまじまじ覗き込んだ。「泣きぼくろ」という単語が出た途端、遠井の目が見開く。

 愛莉はシロの方を見て、また遠井のほくろに目を戻した。それから携帯を取り出し、絵里香から受け取っていた写真を見直す。


「ほくろ……こっちじゃない」


 得意なはずの長距離は、苦手に。

 プリンはとろとろの柔らかめ派から、硬め派に。

 泣きぼくろは、左から右に。


「君は……誰?」


 愛莉の純粋な疑問が、静まり返った店内に溶ける。

 絶句する愛莉と絵里香、無言のまま遠井から目を離さないチェシャ猫とシロ、緊迫した様子で息を呑む主婦たち。

 数秒、沈黙が続いた。


 やがて遠井が、ガタッと椅子を立つ。


「ごめんなさい! 俺、偽物です!」


 彼の大声は、狭い店内に響き渡った。びしっときれいに頭を下げ、遠井、もとい「遠井の偽物」が叫ぶ。


「だから無理だって言ったのに! 俺はちゃんと、やめようって言ったのに!」


「待って待って、遠井くんじゃないなら誰なの!?」


 愛莉も立ち上がり、彼の肩に手を置いた。

 遠井の急な動きに警戒したチェシャ猫は、身を低くしている。シロは彼を横目に一瞥して、再び遠井に目を向けていた。

 遠井は一旦言葉を呑み、凍りついている絵里香と目を合わせてから、また深々と頭を下げた。


「遠井であることは間違いないんだ。でも、絵里香の恋人の『遠井禎輔』ではなくて、俺は双子の兄の『遠井辰武』なんだ」


「双子!?」


 愛莉が目をまん丸くし、写真の中の遠井「禎輔」と目の前の遠井「辰武」を見比べた。


「双子だなんて知らなかった。えーっ! そっくり!」


 黙っていた絵里香も、やっと口を開く。


「双子の兄がいるって聞いてはいたけど、会ったことはなかったし……こんなにそっくりとは知らなかった」


「入れ替わってるなんて面白い! それ本当にやる双子、存在するんだ」


 漫画の中だけだと思っていた、と、愛莉は口をあんぐりさせた。辰武が弱々しく俯く。


「小さい頃は、よく入れ替わってたんだ。俺たちの見分けがついてない大人をからかうのが面白くて……。泣きぼくろの位置が違うって気づいた人だけは、見抜いたけどな」


 彼は自身の泣きぼくろを指さし、言った。


「大人に近づくにつれて、俺たちは性格に差が出てきた。だから上手く入れ替われなくなってきて、ここ数年は封印してたんだよ」


「それなのに、なんで今日入れ替わってるの?」


 愛莉が直球に尋ねると、辰武は少し口籠ってから、素直に答えた。


「実は……本物、弟の禎輔は今日、テストで赤点取って補習なんだ。絵里香さんと約束してたのに行けなくなって、しかも理由がダサい。真実を言ったら絵里香さんに幻滅される……だから、双子の兄の俺を、替え玉にしたんだ」


 それを聞いて絵里香は怪訝な顔で俯き、愛莉は口を押さえた。チェシャ猫は呆れ、シロは苦笑する。

 辰武自身も、弟の情けなさに頭を抱えた。


「分かってる。誤魔化そうとするほうが余計にダサい。俺も、『性格が似てないからバレる。却って見苦しいからそんなのやめよう』って言ったんだけど、『双子として俺をよく見てきたんだから、辰武なら俺の演技ができるはず』だと聞かなくて……」


 禎輔とだけ面識があり、辰武を知らない人から見れば、泣きぼくろの位置の違いなど気づかない。辰武の演技がもう少し上手ければ、愛莉も絵里香も気がつかなかっただろう。

 辰武が苦しそうに白状する。


「俺は禎輔じゃないから、長距離走苦手だし……あいつになりきろうとしても、プリンの好みの硬さなんか気にしたことなかった」


 絵里香はまだ、凍りついていた。別の席から覗いている主婦三人も、固唾を飲んで行く末を見守っている。

 辰武はもう一度、絵里香に頭を下げた。


「ごめん。禎輔の提案だとしても、断りきれなくてここに出てきたのは俺の判断だ。だから俺も共犯だ。禎輔の彼女である絵里香さんを、騙そうとした」


 騙された絵里香は、声を出さない。

 チェシャ猫はちらりと、隣のシロの様子を窺った。シロもチェシャ猫と目を合わせると、にこりと口角を上げ、その場を離れた。カウンターに入り、仕事を始める。

 やがて、茫然自失だった絵里香が肩を震わせはじめた。


「う、うう……」


 怒りか、涙か、彼女はこみ上げるものをこらえるように、小刻みに打ち震えている。愛莉が絵里香の顔を覗き込む。

 と、その途端、絵里香は腹を抱えて笑い出した。


「あっははは! なにそれえ、おかしー!」


 突然仰け反った絵里香に、愛莉はぎょっと飛び退き、辰武は絶句した。絵里香は楽しそうに笑って、目尻に涙を滲ませている。


「だって、赤点補習でデートキャンセルとかダサいし、それを言い出せないのもダサいし、慌てて双子の兄に代打を頼むのもダサすぎ! あははは!」


「あ、はい、それはそう」


 辰武が驚きながらも同意すると、絵里香は一層激しく笑い声をあげた。


「見抜けない私もダサいし! やばー!」


 それを受けてなぜか、愛莉に笑いが感染した。


「きゃははは! ほんとだよねー!」


 壊れたように笑う絵里香と愛莉に挟まれ、辰武だけ、ぽかんとしている。和やかな雰囲気に、主婦三人はほっとしたようにお茶の時間を再開した。

 ひとしきり笑った絵里香が、スカートのポケットから携帯を取り出した。


「さて、禎輔本人に連絡してやろ。『次は一発で見抜いてやる』って」


 禎輔の愚かさを、怒るどころかしっかり楽しんだ絵里香は、いたずらっぽい表情でキーボードを打った。

 カウンターからシロが声をかける。


「えーと、それで、プリンはとろとろひとつと硬めふたつでいいんだっけ?」


 ほんわかした問いかけが壷に入ったのか、絵里香はまた激しく噴き出して大笑いした。

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