察しがいいのか悪いのか

 その翌々日、『和心茶房ありす』の閑散とした店内で、ふいに、シロが愛莉に言った。


「今日は髪飾りつけてるんだね。似合ってるよ」


「そうなの! ウェイトレス服に似合いそうなシュシュ、見つけたんだ」


 愛莉はポニーテールの根元を指さした。

 紅色の和服風ワンピースに合わせた、紅色のリボンがついた髪飾りである。小花柄が散ったそれは、まるで初めからワンピースとセットだったかのようにマッチしていた。愛莉はリボンの先を指で弄り、はにかんだ。


「今日からバイトの日はこれつける。えへへ、チェシャくんも褒めてくれるかな」


 その直後、愛莉は急に、扉の方を振り向いた。そして静かな店内に、愛莉の歓声が響き渡る。


「チェシャくーん! いらっしゃいませー!」


 瞬発力で駆け出し、閉じかけの扉の前にいる客……チェシャ猫に飛びつく。入ってくるなり抱きつかれ、チェシャ猫は辟易した声を出した。


「は? あんたなんでこの時間に……あ、土曜日か。学校ないのか」


 カウンターの中で、シロが和紅茶をいれる。


「扉の鈴が鳴らなくても、愛莉ちゃんだけはチェシャくんの入店に気づくね。いつの間にか入店してても、愛莉ちゃんが大声出しても、どちらにしてもびっくりするなあ」


 コポ、と、茶が小気味のいい音をたてる。チェシャ猫はくっつく愛莉をひきずるようにして、定位置のテーブル席についた。


「それで、今日はなんで呼び出したんだ?」


「昨日、お客さんたちの会話を小耳に挟んで、ちょっと気になってる話があってね。君の意見も聞きたいんだ」


 シロが和紅茶を注ぎ終えると、愛莉がそちらへ駆け寄る。彼女と目を合わせ、シロは湯のみを盆に載せた。


「そのお客さん、六人グループで繁華街の外れの居酒屋さんで飲み会をしてたそうでね。お会計を済ませてお店を出た途端、突然、ひとり消えたんだって」


 和紅茶が載った盆を、愛莉に差し出す。愛莉はそれを受け取って、チェシャ猫の元へ持ってきた。


「夜のドラマで見たことある! お店の中で出会った人にー」


 愛莉はきりっと凛々しい顔を作り、和紅茶をチェシャ猫の前に差し出す。


「『マスター、俺からこの子に一杯』ってお酒を奢って、そっからいい雰囲気になっちゃって、ふたりで夜の街に消えるやつー!」


 日の高い時間の喫茶店で、ソフトドリンクを出しながら、雰囲気だけ真似る。チェシャ猫はじろっと愛莉を睨み、そして無視した。代わりにシロが否定する。


「ううん、会社の人と取引先の、ビジネス飲み会。結構お固い場で、そういう余裕のある飲み会ではないみたい」


「そんじゃ、一本釣りしてる場合じゃないね」


 愛莉がすんなり受け入れる。チェシャ猫はテーブルに肘をついた。


「そういう事情なら、二次会が怠くてそっと帰った、とかでもなさそうだな」


「うん。なんならその消えた人は、商談の責任者で、バックレると自分がいちばん損する立場だったんだって。そういう人であっても、お酒に呑まれちゃって訳分かんなくなって、帰っちゃったのかもしれないんだけどさ」


 シロが真剣な表情で言う。チェシャ猫も、真面目に尋ねた。


「それで、その消えた奴は見つかったのか?」


「翌日、記憶が曖昧な状態で、駅前のベンチで発見されたそうだよ。因みに商談は失敗したそうだ」


「それだけ醜態晒してればな」


 妙に納得するチェシャ猫を尻目に、愛莉はカウンター席の椅子に腰を下ろした。


「なんか……すごい失敗談だね。あたしもお酒飲める歳になったら、気をつけよ」


「そうだね。お酒は飲んでも呑まれるなってね」


 そう愛莉に笑いかけてから、シロはさて、と、カウンターに腕を乗せた。


「ここからが本題。なんとこの話、聞かされていたもうひとりのお客さんが、自分も経験があると言っててね。その人もやっぱり複数人で、同じ飲み屋街のエリアで飲み会をしていて、二次会への移動途中でひとり消えた。そして駅前のベンチで見つかった……全く同じ流れだったんだよ」


「ふうん。そうなってくると、急激に不自然さが増すな」


 全く別のところで、似たシチュエーションが起きている。偶然にしては、奇妙な話だった。愛莉がぶんとシロを振り返る。


「もしかして、レイシーの仕業かな!?」


「かもしれない。ので、過去に似た例がないか、区役所に問い合わせようかなと思ってる。チェシャくんはどう感じた?」


 喫茶店の客同士の日常会話、少し不思議な出来事の報告が、シロのセンサーに引っかかっていた。

 シロが改めて振ると、チェシャ猫は和紅茶に手を伸ばし、即答した。


「調査する必要はあると思う。酔っ払いなんか思いがけない行動する生き物だから、単にふらふらいなくなっただけかもしんねえけど。空振り覚悟で調べるだけ調べる」


「うん、じゃあそうしよっか。お店のエリアも大体把握してるから、都合のつくとき、調査に出かけよう。……ところでチェシャくん」


 シロが急に、話題を切り替える。


「米派がパン派になるなら、麺派はなにになるのか。蕎麦派がうどん派になる……なんてどうかな」


「あんた、まだその話してたのか」


 チェシャ猫が鼻白むと、シロはおかしそうに笑った。


「普段から考えてたわけじゃないよ。君を見たら思い出したんだ」


 そう言って、シロは愛莉と目を合わせた。


「遠井……弟の方で、絵里香ちゃんの本当の彼氏さんなのは、禎輔くんだっけ。彼、あれからどうなった?」


「昨日の放課後、校門前で絵里香を待ってて、絵里香に土下座して謝ってたよ! 絵里香はやっぱり大笑いしてるだけで、全然怒ってなかった!」


 愛莉が嬉しそうに答えると、シロもにこりと微笑んだ。


「そっかあ、別れ話にならなくてよかったあ」


「懐の広い彼女でよかったな」


 チェシャ猫は呆れ返り、それしかコメントしなかった。愛莉が詳細を話す。


「他の生徒もいる前で土下座謝罪だよ。絵里香は戸惑うより先に笑うし、一緒にいたあたしも笑っちゃった! でね、今度こそ『和心茶房ありす』行こうって、また約束したの」


 双子の弟であり、絵里香の本物の恋人であった禎輔は、己の情けなさを恥じて素直に謝罪した。誠実に謝ったところで絵里香を怒らせてもおかしくはない失態だったが、それ以上に、絵里香にとっては面白かった。彼女は泣きも怒りもせず、禎輔を許したのだ。


「笑って許せる絵里香ちゃんはすごいね。付き合いたてだから、愛しくてたまらなくて、なんでも許せちゃうのかもね」


 シロの穏やかな微笑みを一瞥し、チェシャ猫は小さく嘆息をついた。


「くっだらねえ……」


「ははは。くだらない話で済んでよかったよ。一大事になるより、よっぽど」


 シロが自分用に、湯のみに抹茶を点てはじめる。


「遠井くんとすり替わった、人ではないなにか……だったら、笑い事じゃ済まなかったもの」


 冗談半分に言われ、チェシャ猫も和紅茶の湯のみに手を伸ばした。

 今すれ違った人が、人間ではないかもしれない。そういう可能性を常に警戒する狩人は、小さな違和感に敏感である。

 愛莉が椅子から脚をぷらぷらさせ、ポニーテールを飾る髪飾りのリボンを、指で弄った。


「チェシャくん、辰武くんの泣きぼくろの位置、いつから気づいてた?」


「こっち来たときから」


「よく気づいたね。遠井兄弟とは面識ないのに。あたしとシロちゃんの会話をきちんと聞いて、覚えてたんだ」


「会話を覚えてたというか、たまたま記憶に残ってただけだ。だからわりと曖昧に、『こっちだったか?』くらい。でもシロさんも反応してたから、逆だと確信した」


 チェシャ猫も和紅茶を口に運び、湯気をあげる水面に息を吹きかける。愛莉は彼を眺め、言った。


「まるで鏡から出てきたみたいだったよね。ジャバウォックの話を聞いたばっかりだから、ちょっとヒヤッとしちゃった。チェシャくん、よく撃ち殺さなかったね!」


「いきなり殺しはしねえわ。まあ警戒はしたけど、どちらにせよ様子を見てからだ。なんか、手が特徴的だったし」


 チェシャ猫の言葉に、愛莉が目をぱちぱちさせた。


「手?」


「手のひらの、指の付け根辺りに、マメの跡があった。遠井は陸上ひと筋だと聞いてたけど、あのマメのでき方は野球やってる奴にありがち」


 辰武が愛莉からメニューを手渡されたとき、チェシャ猫の角度から、辰武の手が見えていた。


「陸上部であっても、たまたまそのときマメができていても、おかしくはない。だから少し気になった、程度だけど」


 チェシャ猫がおざなりに言うと、愛莉は椅子から落ちそうなほど前のめりになった。


「流石! 辰武くんは野球部なんだって! 昨日、土下座しにきた禎輔くんが言ってた」


 禎輔と辰武の泣きぼくろ以外の違いに気づき、レイシーでもないと判別できたのは、チェシャ猫が狩人として培ってきた観察眼の賜である。


 ハンプティ・ダンプティは、他人の顔の見分けがつかない。彼の目には、全ての人間が双子のようにそっくりに見えているらしい。

 愛莉はシロが話していた、そんな話を思い出した。

 狩人は、ハンプティ・ダンプティとはまるで正反対だ。興味のあるなしに拘らず、些細な違いに気づき、違和感を見つける。


「すごいなー、やっぱり狩人って、よく見てるんだ。それで、チェシャくん」


 愛莉は椅子を降り、チェシャ猫に歩み寄った。


「あたし、今日、いつもと違うの。分かる?」


「あ?」


 チェシャ猫が眉を寄せ、愛莉をじっと見る。しかし彼はすぐに降参した。


「分からん」


「待って待って、諦めるの早すぎ! もっとよく見て、ヒント、上の方!」


「虫歯でもできたか」


「違うよ! もっと上! もっと見えるとこ!」


 愛莉にしつこくされ、チェシャ猫はもう一度愛莉に目をやったが、やはり首を傾げた。ついに愛莉が折れる。


「ポニーテール! の、リボン!」


「あ? ああ」


 ようやく、今日からついた髪飾りに目が行った。

 狩人は、興味のあるなしに拘らず、些細な違いに気づく。……はずだが、チェシャ猫に関しては、こういう極端な例もある。愛莉はチェシャ猫の前に座り込んで震えていた。


「あたしに全然興味ないー! そういうところが好き!」


「で、シロさん。さっき言ってた居酒屋の話、エリアはどの辺りだ? このあとにでもちょっくら覗いてくる」


 愛莉のその反応すら無視するチェシャ猫と、黄色い声を上げる愛莉、シロはふたりのこんな様子も、とっくに見慣れていた。

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