Act.3

潜入、ポイソンコーポレーション

 三月中旬、月曜日。製薬会社、ポイソンコーポレーションの本社。

 大企業であるこの会社は、人材が多く、全員の顔を把握している人はいない。おかげでチェシャ猫が紛れ込んでも、「どこかの部署の誰か」扱いで、不審がられることはなかった。そもそも存在感のないチェシャ猫は、廊下を歩いていても誰からも気にされないのだが。

 初日の昼過ぎ、チェシャ猫は研究室の前の廊下に突っ伏す山根を発見した。彼はその場にしゃがみ、死んだように倒れている山根の肩を叩いた。


「なんつーとこで寝てんだ。せめて仮眠室……せめてデスクで寝ろよ」


「はっ、やだ。寝ちゃった」


 山根が顔を上げる。まだ徹夜続きなのか、目の下の隈は先日よりもさらに濃くなっていた。口の端から涎を垂らして、一度起きたがうとうとしている。チェシャ猫は呆れ顔で言った。


「そんな体調で仕事するの、却って効率悪いだろ」


「本当そうよね。少し休憩しようかしら。チェシャくんもおいで」


 山根はふらっと立ち上がると、チェシャ猫を手招きして廊下を歩き出した。


 *


 案内された先は、屋上だった。ほんのり冷たい春の風が吹く中、山根は缶コーヒーを、チェシャ猫はホットの紅茶を自販機で買う。


「午前中いっぱい散策して、どうだった? なにかいそうな気配はある?」


 山根が目を閉じて聞いてくる。チェシャ猫はボトルの蓋を捻りつつ、答えた。


「今の時点ではまだ、なんとも。使う人間の過労による、注意散漫からくる操作ミスかもしれない。あんたを見る限りそれがいちばん自然だ」


 まさに山根は、先程まで睡眠不足で廊下で倒れていたのだ。

 まずは総務から具体的な相談を聞き、備品が壊れた部署を調査した。最初は総務部、あとは研究室が多いという。ただすぐに直るので、いちいち報告していない部署も多い。

 他の部署にも聞き込みをしたところ、壊れる頻度が多いのは深夜残業中だ。高頻度で壊れる備品は修理業者に見てもらったものもあるが、いずれも原因が分からず、業者も困惑しているという。


「先週、警備室のエアコンも壊れたわよ。これもやっぱり、壊れたり落ち着いたりを繰り返してるみたい」


「これがマジでレイシーの攻撃だったら、だいぶ緊急事態だよな。現状、人は死んでないけど、これからめちゃくちゃ死ぬぞ」


 チェシャ猫が言うと、山根はちらと彼を見て、無言で頷いた。

 一見、死人が出るような案件に比べれば、電子機器の不調など、大して緊急性がないように見える。しかし電子機器を壊せるということは、すなわち、会社の保管するデータを盗んだり、指紋認証システムを破壊して自由に扉を開閉したりもできる、というわけだ。


「レイシーが単にうろつくだけの低能なものならともかく、知能も悪意もあって、特定の資料を探しているとしたら……かなりまずい」


「そうね。だから急ぎで、お金もたっぷり払って、あなたを雇ったんだもの」


 日当が弾むのは、それだけ焦っているからだ。


「一度壊れた電子機器が、ほっとくと直るというのが厄介だ。人が見てない間に指紋認証リーダーを壊されて扉を開けられていたとしても、見てないうちに直ってたら、侵入されても気づかねえ」


「ええ。下手したらもう、とっくにデータを盗まれているかもしれない」


 風が山根の乱れた髪を、さらに乱す。チェシャ猫は彼女の緊張感のあるようなないような顔を、横目に見ていた。


「単なる機械の不調だといいな」


「本当よね。私も気になってるんだけど、自分の業務が忙しくて調べられないから、頼むわ、チェシャくん」


 山根が缶コーヒーを口に傾ける。チェシャ猫はしばし、コンクリートの床に目を落とした。


「万が一レイシーがいるとすれば、多分、たくさんいる社員やら関係者やらの中にしれっと紛れ込んでる」


 レイシーは往々にして、群衆に混じっている。


「社員に擬態してるとしたら、他の社員に名前と顔を覚えられず、どこの部署にも所属せず、なにをしてるでもなくふらふらしてるはずだ」


「それ、今のチェシャくんよねー?」


 そう言い残し、山根は立ったまま眠ってしまった。

 チェシャ猫は風を浴びながら、考えた。


 狩人の存在は、世間には秘匿されている。レイシーに気づかれてはならないからだ。

 仮にレイシーが狩人の存在に気づいたら、真っ先に攻撃を仕掛けてくる。己の邪魔をする者なのだ、潰した上で、喰う。

 人知を超えた化け物に先手を打たれたら、狩人であっても太刀打ちできない。だから、狩人自身を守るためにも、存在をレイシーに悟られてはいけないのだ。


 この条件はもちろん、狩人をフォローする組織、役所や研究機関も同様である。レイシーを駆除し、コツコツ情報を集めているのをレイシーに知られたら、どんな攻撃に遭うか分からない。集めた資料が漏洩すれば、レイシーたちは人間に駆除されないよう、警戒心を強める。そうなれば人間側は、いよいよ勝ち目をなくすのだ。


 ポイソンはまさに、レイシーの調査機関である。この社内にレイシーが紛れ込んでいるとすれば、秘密裏に取りまとめているレイシーの資料が見つかる恐れがある。

 知能の高いレイシーであれば、持ち出して漏洩させ、そしてポイソンそのものを潰しにかかる。狩人も危険に晒される。今のところはただ機械が壊れるだけだとしても、そのうち最悪の事態に繋がるのだ。

 ここにレイシーがいる可能性があるのは、かなりの一大事だ。


 ポイソンが自分に対し、気前がいいのも肯ける。

 温かい紅茶をひと口飲んで、チェシャ猫は山根が起きるまで、休憩していた。

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